cheat_IEの雑録

趣味関連のことを書きます。

創作礼賛 ~尊敬と感謝の念を込めて~

 

どうもチート部長です。


大学の前期をいったん終えて、私生活も落ち着いたので、久しぶりに駄文でも連ねてみようかなと。
今回のブログはきちんと画像やらなんやら貼り付けたり、見やすく工夫を凝らす形式をとるものではありません。
そこまでの余裕はないので、思ったことを適当に綴ることにします。

 

 

 

今回のテーマは「創作」についてです。

 

 

 

創作礼賛なんていう大仰なタイトルつけてしまったからには相応の内容を盛り込んだ記事にしたかったのですが、粗雑な記事になってしまいました。(良く分からない長文ツイートと遜色ないですね)

 

 

最近自分であれこれ考えたり、考えたことを文字にしたりすると痛感させられるんですよ、自分の立てている論(?)の詰めの甘さ、欠陥に。
自分で気づくことができる分良いという捉え方もあるのかもしれませんが、次から次へと見つかるのでキリがないんですよね()
漏水している管を修復していて一つの場所の穴をふさいだら別の場所から水が漏れだす・・・みたいな。
例に漏れず今回もそんな状態で積み残しのある内容ではありますが、ご了承ください。

 

 

話を戻しますと、創作について今回記述するわけですが、その中でも絵の活動についてフォーカスを当てます。
本来であれば絵の活動のみならず文芸、音楽・・・・・等々枚挙した上で、全てを礼賛し、その素晴らしさをお伝えできれば良いのですが、今回はテーマを絞ります。

きちんと創作を実際にやったこともない人間がその事柄について何を語るのか、笑止千万と思われる方もいらっしゃることかと思います。
今回、私は創作対して抱いている思い、オタクのクソデカ感情を並び立てるだけです。
プラトンの饗宴では愛(エロス)について討論、賛美を行うといったことを行っていましたがイメージ的にはそんな感じで(否、そんな大層なものではないですが)

 

 

 

 

いつも長くなる傾向があるので前置きはこれくらいにしときましょう。

 

 

創作について。

 

 

創作とは類稀なる才能や並々ならぬ努力や熱量によって行われる尊い営みだと思っています。
自分の中にある思いを表現する、これがどれほど素晴らしいものなのかお分かりいただけるでしょうか。
まず、何がすごいかというと自分の頭の中にあるものを具現化すること。
滅多にできるものではありません。
人は往々にして頭に中にあるものを他者に伝えたり表現したりするときに言語というものを用います。
実際に今私がしていることがそれです。
これは日常的に行われるものですが、これを言語ではなく作品として昇華し、華々しく表現したものが創作と言えます。(ここで華々しくという表現を使ったのは文字通りの華々しさではありません。時に醜く、醜悪さを表現する作品もありますが、その作品もまた醜悪さというものを華々しく「表現」しているのです。)
プラトン哲学やキリスト教思想を用いながら言及しますと、神はイデアという物事の本質を持つ非物質的なものからこの世の形あるものを生み出したわけですが、形亡きものを形あるものにするという点で創作者は神に似る存在とも言えるかもしれません。
本当にすごいですね。

(現実に形としてあるものを描く、風俗画や風景画、静物画などよりも宗教画や寓意画など形無きものを表現する方が尊いのである、と一概に古典的ヒエラルキーを肯定するような論にするつもりはありません。

これについても今回は割愛しますが・・・・・。)

例えば、オタク的な視点から挙げると、自分の思い描くキャラクターの言動を絵といったものに落とし込み、具現化させる。
一度は夢見るものではないでしょうか、こんなことできればなと。
私自身頭の中で思い浮かべたことは何度もありますが、形として現すことはほとんど叶いませんでした、あるものを模写することぐらいで精いっぱいだったのです。
また、上のように形として残された作品が人々の心を動かす力を持っていることも大きな魅力です。
どれほど創作コンテンツによって人生が豊かにされているかということを考えると、オタクとしては感じ入る部分が多々あります。

 

このような点でまず創作されている方に私は強い尊敬の念を抱いています。

 

 

では、オタクの視点を離れ一般の創作性というものに話を戻します。
頭の中のものを具現化するという話はずっとしていますが、これをストレートに実践するものが創作と言えるかもしれません。

 

これはどういうことなのか。

 

私は言語の不便利さという視点に立脚した上で論を展開します。
込み入った議論となるため、ここでは深く突っ込みませんが思った以上に言語というものは日常的に使っていながら、ふと冷静に分析してみると欠陥があるものだと言えます。


そもそも、この言語というものを使ってお互いの頭の中のものを伝え合うには一種の「言語のルール」というものをお互いが了承している必要があり、それを根本としたうえで私たちは生活しています。
しかし、この根本原則は思った以上に曖昧で、捉えどころなく揺らぎやすいものなのです。


言語論は古来より自然説と慣習説に大別し議論されてきましたが、今では慣習説が主たる説、ここで言う言語を使用する際の根本原則として存在しています。
慣習説とは、名前はあくまでも社会的慣習やそれぞれの文法や言語に則ったもので事物の本質を指し示すものではないと考えるものです。

具体的な例を挙げ説明すると、魚のことを魚と呼ぼうとfishと呼ぼうと、はたまたpiscis(ラテン語)と呼ぼうと、どの名前が正しいということもなく、魚というものの本質的な意味を指し示しているわけでもないということになります。
また、英語でクラゲはjellyfishとして呼ばれていますが、日本ではクラゲは魚(fish)に当たるものではありません。
日本でjellyfishという言葉を仮に使ったとして、クラゲという意味を指すという言葉を知らなければ、日本で体系的に使われるfishの概念から類推して新種の魚を思い浮かべてしまうなどミスリーディングが起こることでしょう。


このように名前というのはあくまでそれぞれの社会的慣習に従ってつけられたものであり、その役割に留まるものです。
そして、地域や時代の慣習によって左右されるものであることから、上のようにコミュニケーションの齟齬が起きうるものだということができます。
私たち日頃言語を用いてコミュニケーションをしていますが、実はその「確かさ」は明白ではないのです。

・・・・・込み入った議論になるため、深堀しないと言った割には結構言及してしまった気がします。
申し訳ありません。


まとめると、私たちが伝える言語は案外使い勝手が悪いのではないかということです。

 

ここで戻ってくるのが創作というものです。
創作はその言語が苦手とする分野をも乗り越えて、頭の中のものを表現することができるものなのではないのでしょうか。
言語というものに頼らず表現できる点で、ストレートに感覚に訴えるという強みがあります。

 

歴史的事例を用いると、キリスト教では布教をする上で難解な聖書の教えを口頭で伝えるよりも、より伝わりやすい感覚に訴える方法を用いて布教活動を行ったというものがあります。
この時に用いられた伝わりやすい方法というものが芸術(絵画や音楽など、それらを包括した場としての総合芸術、教会)であり、これは創作活動によって生み出されるものです。


宗教画を見ることでそこに込められた神秘を感じ取り、心が動かされる。
讃美歌などを聴いたり歌ったりすることでどこか心が超越的なものと共有しているような、宗教的体験をする。
教会という場に入るだけでどこか非日常な空気、特別な場としての力を感じる。

 

長ったらしい複雑な教えを聞くより心に直接響くものとして作用しうることは想像に難くありませんし、ここには言語というものは必要以上に関与していません。
言い様によっては時に創作活動によって生み出される作品というものは言語よりも雄弁であると言えるかもしれません。(議論の余地があることは認めます。)

創作というものによって時に言語としては表現することが難しいとされてきた愛や死、神、神秘といった形而上のものまでものの見事に形として現実に具現化する、これが創作です。


(死を巧みに表現した代表的な絵画としてヴァニタス画というものがあります。私自身このジャンルの作品が好きなため、良い例としてご説明したい気持ちはやまやまなのですが、既に込み入った話題を想定以上に書いてしまっているため今回は割愛します。機会があればいつかブログで取り上げてみたいものです。)


哲学者等多くの知識人があれこれ考え、言葉を使って論じようと挑戦してきたしてものまでを表現しているのです。
上のような点やその他諸々の理由をもって芸術、創作といったものをを讃美する哲学者も少なくありません。

 

長々と堅い理論が続いたのでいったんまとめますと、創作は様々なものを表現し、人々の心を動かすことができる。
この点で優れているというものが一つ目の論です。

 

(なお、この議論に欠陥があることは重々承知しております。
まず、絵画といったものを言語と完全に切り離して解説されていること。
そもそもこの二つを切り離していいのか、ここには多分な議論の余地が残されています。
寓意画という絵画では、そこに出てくる色や物がその絵画の意味を表象するというものがあります。
しかし、色や物が表象する意味合いは地域や社会などによって変わります。
例えば、赤色。
アジア圏では赤色は幸福や富といったイメージ、それに伴って宗教的な色として用いられたりもします(神社の鳥居などイメージしやすいでしょう。)
これに対して、赤色は西洋圏ではエネルギー、危険、愛といったものを意味し、アフリカ圏では死を意味します。
このように絵画に用いられる寓意も言語と同じように慣習や時代によって変わることから言語と共通の特徴を有しており、お互いに重なり合う部分があることが分かります。


上の論に基づきながら考えると絵画というものは言語によって支えられているとも言えます。


サクラノ刻という作品の登場人物の一人である中村麗華は作中で

 

『新しい美は多くの人にとって新奇すぎる。だからそれを言葉によってみんなに発見させるのよ。』*1

 

と言っています。

このことからも分かるように絵画は言語を用いずストレートに感覚を訴えてくるという性質を持ちつつも、同時に繊細な感覚を要する場合があるのです。
言葉を用いることによって、繊細な感覚を有する一部の者だけでなく、より多くの人に伝わりやすい、分かりやすい絵画にすることができることは間違いありません。
このようなことを考えると自分が先ほど讃美した言語よりも雄弁に物を語るという表現はやや誇張した言い回しになっていると言わざるを得ないでしょう。
何かについて考察するために別のものを用いて比較するということは思考の初歩的な視点の一つであありますが、その目的である何かを思考するために、ただの道具として別のものを持ち出す、都合のいいように解釈して利用してしまうというのは誤った論の立て方です。
このことから今回の論は粗削りで、もう少々練り直す必要があることは認めなければなりません。)

 

 

 

二つ目の論は私の体験に基づくものです。

私は何故か幸運にも仲良くしていただいている創作者(イラストレーター)が数人います(私は創作も何もしていないただの消費オタクにすぎないにも関わらずです。)

その中でも個人的に一番距離が近いと感じ、仲良くしていただいている(と勝手に思い込んでいる)イラストレーターさん(以降先生)がいます。


その先生とお会いして目の前で絵を描いていただいた時の体験です、もう三年ぐらい前の頃の話になるでしょうか。
その先生とサイゼ〇ヤと一緒に食事をした後、話に花を咲かせていたところに、烏滸がましくも私はお願いをしたのでした。

 

「自分の最推し、イリヤスフィールの絵を目の前で書いてほしい。」と。

 

先生は非常にお人がいいので快諾してくださいました。
基本こういう場ではきちんとした色紙やペンなどを用意すべきなのでしょうが、そんなものを持っていなかった私は先生に自分が普段勉強で使っているシャーペンとノートの1ページを切り取って手渡しました。
尊敬する絵描きさん、先生が自分の目の前で一からイラストを描いてくださるというこの贅沢・・・・・手の動き一つ一つを始めの頃は緊張した面様で見つめ、徐々にその筆さばきに陶酔していったような記憶があります。

完成したものは本当に見事なイラストでした。
私が普段使いしている道具のみで、こんなにも素晴らしい作品を作る。
このことに本当に驚かされました・・・・・。
正にその先生の身体に宿りし、才能や技術、それを身に着けるまでの幾多の努力がそこに描かれていたのです。
もちろん 絵を創作する時、より良い道具や然るべきコンディションの上で行われれば、さらにより良いものが作られるということは間違いありませんが、培われた技術というものは道具などといったものに左右されず、きちんと作品として完成させることができるということが分かりました。
これが圧倒的な創作者としての実力をありありと見せつけられたのです、同じ道具でありながら、どうやっても私には作品を生み出すことができないのですから。
もとよりその先生のことは大好きでしたが、この瞬間により、尊敬の念を抱くことになりました。

 

 

私は最近、創作者になれないならば、せめて鑑賞者として作品の真価を読み取れるように、作品に向き合う者として相応しい知識、見識を身につけようと個人的に勉強しています。


時にそれは絵の構図など。
人体の絵というものは直立だと違和感が出るため、少し軸をずらし体に動きを持たせるという技法があり、これを「コントラポスト」と言います。
この、芸術における身体美の基準を最初に示したような作品としてギリシアの《クリティオスの少年》というものがあり・・・・・。

といったもののようにです。


こういった知識を私は持ってはいますが、創作に一切活かすことはできていません。
身体の軸といったものは一番最初に絵を描く上で構図として扱われるものだと思いますし、どのような軸が綺麗な人体を描く上で必要であるかが頭ではでは分かりつつも、それを技法として使うことは叶いません。
この点からも分かるように創作者の方々には一切近づくことができません。

 

デカルトの『方法序説』では

「着想がいかにも人の意にかない、しかもそれを文飾と優美の限りをつくして表現できる人びとは、詩法(デカルトはここでホラティウスの『詩法』を指し示している)など知らなくとも最良の詩人であることに変わりはない。」

────デカルト方法序説』谷川多佳子訳 15頁(岩波文庫,2021)

 

と記述されていますが、正にその通りなのです。

いくら色々と積み重ねようと自分にとってクリエイターの方は一生超えられない雲の上のような存在、尊敬の対象には変わりないです。

 

話を戻しますと、そのイラストを頂いて家に帰った後、すぐに自分の机の横の壁に貼り付けました。
こうして今も自分の机の上でこの記事を書いているわけですが、横を向けばすぐにその作品が目に入ってきます。
その絵と先生は自分にとってかけがえのない特別な存在です。
大学受験を乗り越えることができた一つの要因としてもこの先生の存在があってのことですし(自分が辛い状況に置かれた時に他にも絵などの作品を書いてくださりました)、就活の方針が導き出せたこともその創作者の活動があってこそのものだったりします。

 

以上のようなことをふまえ、創作者の方を尊敬しています。

 

 

 

では最後にこのような尊敬の念を持ったとして、どのようにそれを表すことが良いのでしょうか。
一番最初に最も分かりやすい形で挙がるものは金銭的な応援だと思います。
とはいえ、これについては最早語るべくもない明白な事実ですので今回は置いときまして・・・・・。

 

作品の向き合い方、これについて記述して当記事の最後の言葉とします。

まず、そのまま、月並みな表現にはなってしまいますが、どのような作品であれ尊敬の念を持って向き合うこと。
出来の良い作品、悪い作品、様々な作品があることは事実です。
しかしながら、作品というものは概して作ることが難しいもの、創作がどれほど大変なものですごいものなのかはここに来るまでにお分かりいただけたかと思います。
鑑賞者たる人間が、作品に向き合う際に作品の良し悪しについて言及することは悪いことではありません。
むしろ、作品や創作者の方にとってもどのようなものであれ評価は必要になります。
ただし、上のような尊敬の念を忘れて作品を不用意に貶すこと、果てにはその作品の存在価値、創作者の人格まで否定するということは決して行うべきではないと私は考えています。
仮に、できの悪い作品があったとしても、生み出してくれたことには感謝をしつつ、適切に批判を行いたいものです。


そして、私は、これもまた物議を醸す話題ではありますが、創作者と鑑賞者の関係について創作者の立場を上に置きます。(まあ。こんな文章書いていることからもお分かりいただけるとは思いますが)
狂信的なまでに創作者を信奉していると言っても過言ではないかもしれません。
なぜなら、鑑賞者たる私は作品がなければ鑑賞者として存在できないからです。
これに対し、創作者が作る作品は仮に日の目に見られることがなく、評価されていなくとも作品として確かに「存在」しているのです。
人によっては作品は見る人がいることによって成り立つという人がいるかもしれませんが、この意見にやや懐疑的な意見を私は持っています。


仮に、とある作品があったとして、その作品はしばらくの間作者の倉庫にでも眠っていたために誰からも存在を認識されていなかったとしましょう。
そして、しばらくたった後、ある人間によってその作品が「発見」され、大きな価値を持つ作品だとして社会でも大きく取り上げられたとします。

このようなケースがあった場合に作品はどの時点で価値を持っていたのでしょうか。
鑑賞者という立場を重視するならば作品が「発見」された時に作品の価値が発生することになります。

しかし、この考えに基づくと倉庫にしまわれていた間は作品は何の価値も有していなかったということにもなります。
作品の表現や作者の表現された技巧など、作品の有り様は一切変化していないにも拘らずです。
ここで「発見」という表現をしたのも作品は元々物として現に倉庫の中で存在していたにもかかわらず、人に発見されたことをきっかけとしてやっと物として認識された。
その意味で「」を用いています。

これは少々おかしな状態のように思えます。
そこで、どのようにこのような問題を見て取ればいいか考えたところ、作品本来が持つ価値と社会的(世間的)な価値を区別して考えることが望ましいのではないかと思いました。

作品には周りを介さずとも持っている価値というものがあり、それに伴う形でまた別の社会的価値が生まれるのではないでしょうか。

実際の芸術の歴史を踏まえて解説していきます。

 

ルフレッド・ウォリスという素朴派の画家の例があります。
彼は初期の頃に描いた自分自身の作品を芸術作品であるとは考えておらず、芸術界の如何なるメンバーも芸術作品だとみなしていなかった。
しかしながら、時間が経ち、後に芸術界や社会的にも大きく取り上げられ、芸術作品として認められることになったのです。*2

 

先ほど自分が挙げた例も踏まえつつ考えてみると、ウォリスの絵画も同じものであるにもかかわらず、当初は芸術作品ではなく、後に認められることよって芸術作品となったというには少々おかしな話になります。

ここに二つの価値という見方(作品の価値と社会的な価値)という見方を用いれば、元から作品の価値を持っていたが、他者から認められることで社会的価値をも持つものになったと解釈することができます。
そもそも、作品の価値を持たないものであればいくら時間が経とうと価値は見出されることはないでしょう。

これらのことから作品が作られた時点で然るべき作品には相応の価値が鑑賞者たる存在を介することなく、創作者によって生まれている。
私はこう結論づけます。


このことや先ほど挙げたいくら知識を付けたところで私は創作者にはかなわない(デカルトの論)ということから私は創作者というものを崇め奉り、尊敬しているのです。

 

長々と綴ってしまいましたが、以上になります。

 

 

 

全ての創作者に感謝と尊敬の念を今一度、改めてここに表明し、締めくくらさせて頂きます。

ありがとうございます。

 

 

 

 

 

東武ワールドスクエアにて、パルテノン神殿レプリカ 筆者撮影

 

*1:【サクラノ刻】キャラクター紹介PV 1:01-1:09 https://youtu.be/MDgsaIOElOs

*2:ティーブン・ロー『考える力をつける哲学問題集』256頁 中山元訳 ちくま書房,2020 参考