お久しぶりです。
チート部長です。
桜も咲き誇り、麗らかな春の訪れが感じられるこの頃ですが皆様いかがお過ごしでしょうか。(この記事書き始めたのが4月4,5日あたり。このころまだ春だったんです。)
私は去年の11月5th愛知公演からハマった蓮ノ空に熱を注ぎ、そこで出会った愛しき人物の卒業シナリオを今やっと読み終えました。ズレたタイミングでハマりながらも、桜咲くこの季節に読み終えたことは奇遇なのでしょうか。
リアタイで追ってらっしゃる方にすれば今は105期の終盤、103期生の卒業を間近にしているわけでまるまる1期遅れた状態。(社会人になってから本当にシナリオを読むのが遅くなった・・・・・)
そんな訳なので本来であれば、こんなブログなど書かずにどんどんシナリオを読み進めるべきであることは分かっている上で、今感想を書いている。
何を隠そうラブライブ作品の中で最愛の乙宗梢という少女の卒業のシナリオである。ここで感じたものを書かなければ今までの自分のオタク的スタンスも問い直さなければいけなくなる。今の自分が抱えている感情もまとめるという意味も踏まえて書き綴る。
104期活動記録についてきちんと書くとなれば新しく入ってきた104期の代はもちろんのこと、103期生の先輩となった側面などについても言及しなければならいのであろうが、余力もないのでそこは割愛、102期生の卒業を間近にしたところから書く。
前置きが長くなってしまったので本題へ。
夕霧綴/DOLLCHESTRA
綴が主題となった第8話をメインに。
夕暮れ時の感情むき出しの問答とビックボイス選手権、この二つは絶対に外せない。良いシナリオであった。
第8話あたりから涙腺が増しておかしくなっていた記憶がある。
DOLLCHESTRAは歌としてもその主体となる人間と世界の狭間にある混沌としたものやそこにまつわる悩み、生き方に対する葛藤のようなものが歌詞として全面に出ているのが魅力である。
その魅力がシナリオにもありありと出てきたのがこの第八話となる。
まさかラブライブという作品で「死」というキーワードが出てくるなんてことは想定もしえなかった。エロゲーマー、殊にシナリオに重きを置いた畑にいた自分としては「死」といった重苦しめの言葉をテーマに展開されるシナリオも好みであるため胸熱くなるものがあった。
さやかからの言葉から出た
「じゃあ、先輩。わたしが明日死んだらどうするんですか?」
の言葉の重みは図るに余りある。
それは受け取った綴にしてもそうだが、さやかが事前に綴の幸せを願っているという何よりも貴いであろう大前提を出した上でその言葉を「あえて」投げかけたという意義は余りにも大きい。投げかけられた綴にしてもそうだが、投げかける側のさやかの方がよりその言葉の意味することについて自分の中で痛いほどに咀嚼した上で投げたのだと思う。彼女はそういう人間である。心温かな綺麗な旋律のBGMから憂いが付きまとうBGMに様変わりする瞬間も絶妙であった。
その前のやりとりの経緯としては卒業しこの場を離れるということについて自分の中で整理がついていない綴がおり、その卒業というものは時間の流動性という事実然り誰にどうできるものではないという正論に向き合わなければならないという文脈があった。
ただし、綴は今の蓮ノ空の思いが深い余りにそれを受け入れられない。徒町にしても大事な先輩が泣いている姿は見るに忍びない、自分としても辛い、一緒にいたいという思いがあることから「時よ止まれ」、「ただしいからなんだあ・・・・・!」と夕焼け空の下言葉を漏らす。
そんな二人を見て嘆息するさやか。そこにある彼女の嘆息は呆れやがっかりとした気持ちではない。自分の中でも綴先輩、徒町達が抱く同じ悲しみを持っていながらも、綴先輩の今後の為に自分は現実を突きつけなければならないという非常に悲しくも美しい、さやかの優しさや誠実な人間性が現れている、悲しみと自分に対する覚悟の嘆息であるように思えた。
優しさやその人のことを思いやるというのは何も表面上の理解や優しさを示すわけでもない。時にその人にとって本当の意味で必要であるということならば厳しいことも言う。それが真なる対話である。
歌にしてもよく表れているが想いが交錯することも多かった綴とさやか、その二人がこの場で真っ当に意見をぶつけ合えるようになったことについてもまた味わいがある。
正にハートフルなストーリーだがここのハートフルには二つの意味が込められる。和製英語としての心温まる、お互いの思いやる気持ちが感じられるという意味。もう一つは英語のhurtfulの意味、痛みが伴う。傷つきながらも綴先輩のより良い卒業、今後の為に真摯に向き合ったからこそ行われた言葉の応酬があった。
なお、誤解を生まないようにするために言及すると、どうしようもないと、正しくないと分かっていながらも綴先輩の思いを汲み取ろうとした徒町が間違っていると言って言うわけではない。彼女も104期のストーリーを見る中で美しい人間性を持っていると感じた。自分ができないと煩悶しながらもそれに必死に抗う姿は一種私の理想とする所さえあった。彼女は何事にも愚直に真っすぐ向き合う。一番下の代としてDOLLCHESTRAの抱える重みに向き合うという点ではしっかりできていると感じた。現実的、大人という点で言えばさやかに軍配が上がるがそれによって優劣が着くわけではない。あくまでも一人じゃないよとアヒルの人形を渡すのも彼女の健気な優しさである。
話を勧めてビックボイス選手権へ。こちらについては各ユニット毎にも毛色が少しずつ違いが出ていたのも良かった。ただ、共通する思いは一つ。「今この瞬間が愛おしい、別れの時を想うと胸が辛くなる」。迫りくる現実に対してまだそこについていけていない各々の思いがある、それを吐露する場なんて涙を堪えずにはいられない。
やはりここも最後のさやかが響く。あそこまで綴に今後について、現実を投げかけておきながらも思いは他の皆、綴と一緒。何ならその思いは人一倍あると宣言した。そのあとの「おしまい」の優しい声音は何ですか。壊れていた涙腺がさらに崩壊したし、あんなにも情がこもった優しい声を高校2年生女性が出してはいけない。惚れそうになる。
多分、103期の中だと自分は一番さやかのことが好きかもしれない……。
以上DOLLCHESTRAエピソード。
藤島慈/みらくらぱーく
第9話、親の夢×娘の夢をテーマとした話。
ラブライブ自体が夢をテーマとした作品ではあるが、個人の夢、先輩後輩(仲間)の夢といったものが出てきたのは親の夢というのが出てきたのは私が知りうる限りでは今回が初めてあった。
親×子の夢のストーリーには弱い、小学校高学年時代、自分がオタクになりたての際にkey作品の『CLANNAD』を見てからというものその像が自分のどこか根底の中の一つとして根付いている。後に該当のシーンを語る際に引用する。他作品をを持ち込み感想を書くことについての良否はあると思うが私的なものであるということで目をつむって頂ければと思う。
慈が同期の2者とは異なるのがスクールアイドルに通ずるものはある一方でその範疇に留まらないスケールの大きい夢、「世界中を夢中にさせる」という思いを抱いていたが故に個の自分としてののみの葛藤などはそこまでなかったのだと思う。そこで親といった自分の夢に関わる存在、何なら実は自分の夢を支えてくれていた存在がいたことを物語として出して話が展開された。梢先輩と綴については自分の目指していたもの(ライ」ブライ部優勝)やスクールアイドルになる(蓮ノ空スクール女学院スクールアイドル部という居場所がある)といったところで、次の夢をどうするかという個人としての壁や夢に向き合う話だったが、慈は自分としての夢は確立されていたために親子としてどのように向き合ってきたか、今後向き合うかという話であった。
話として出てきたのは慈の母親が慈のために夢をあきらめたということ、その事実を慈が知ったこと。好きなことややりたいことにまっすっぐというものを持っているからこそ自分のために母親が夢をあきらめたという事実に動揺し、思い悩む。
そこに出てくるのが乙宗梢。自分の在り方について常日頃から問い続けている少女。
慈に対してあのアプローチの手法から前に向き直させられるのは梢以外にはいないと思う。かつて慈がや会ったことを引き合いに出してそれが母親が行ったことと同じであることを突きつける。慈の言う通り自分としての筋の通し方や戒めバカと言われるくらいには内省している彼女だからこそああいった話の仕方をしたのであろう。
また、梢と慈は双方割と厳しく言い合う関係であるように思えるがそれはお互いへの信頼関係の裏返しでもある。いくら梢にしたって弱く悩んでいる人に対してはそこまで筋を通せなど無理も言わない。今回ここで梢がこのような話の提示を行ったのはいわば慈の夢に対する思いの強さを認めているからこそ「叱咤激励」したのだと思われる。
慈の足の怪我に伴う挫折の話は慈にとって辛い話でもあるが、梢にとっても「無力感に苛まれた」というくらいには辛い話であっただろう。ドルケで言及した内容に連なるが厳しい話であってもきちんと対話ができるというのは両者がお互いに相手を認め、同じくらいの思いを抱いていなければできないのである。
話がまとまった後の慈の感謝の気持ちの表明と梢の夢をかなえてみせるという言葉も染みるものがある。瑠璃乃から梢へ「めぐちゃんに何かしました?」というものに対し、「星を見ていただけだわ。」と何気なく返答する梢先輩ももう・・・・・・言葉にしえない妙がある。梢の視線の先には幾千の星が瞬く中で、その一つ一つが異なった有り様で異なる輝き方をしていたのが見えていたのであろう。私はまだ102期シナリオを読めてはいないが慈と梢のエピソードはかなり濃密な話が多そうで気になる。
その後の母親と慈の通話のやり取り。もうここは涙腺崩壊である。
して、先に言及した自分の核の一つとなっている作品『CLANNAD』のワンシーンを引用させてもらう。
「子供の夢は親の夢なんだよ!お前が叶えればいいんだ!俺たちはお前が夢をかなえるのを夢見てんだよ! 俺たちは夢を諦めたんじゃねえ!自分たちの夢をお前の夢にしたんだ! 親ってのはそういうもんなんだよ!家族ってのはそういうもんなんだよ!」
───『CLANNAD 第22話』古河秋生セリフ(2008,ビジュアルアーツ・key)
話の文脈にしてもかなり近しいものがある。
『CLANNAD』についても両親が劇団員だったが娘が生まれたためにその道を進むことを選ばなかったという過去があった。娘は文化祭で演劇部として壇上に立つものの、両親が劇団をやることを夢見ていながら自分によって道が半ば途絶えた事実に悩む。悩みの末、本番の壇上で身動きが取れなくなってしまった娘、渚へ向けて張り上げたセリフが上のものである。私は幼心に上記シーンを見て秋生の姿へ憧れへ抱いた。家族でないにしても自分と関わってくれた人に対しより良くするべき姿勢というものの貴さをここから学んだ。自分以外の存在に対し自己を以って貢献することが美しいと思った。特にやりたいこともなかった伽藍洞の当時の自分にとっては一つ光になるものであった。そんなこんなで古のオタク、鍵っ子になったわけですが……。
話が大きく脱線したので戻そう。そう、秋生と慈の母親のセリフに通ずるものがあったためここで引用したのである。慈の母親も言っていたが親は自らを犠牲にしたわけではない。新たな夢を見出したのである。慈のお母さんもお母さんで娘を応援する気持ちと同時並行して自分のやりたいことにもまた新たにチャレンジしてみるという姿勢もすごい。いい親子である。
慈も慈で親へきちんと感謝を伝えられるところ、どこにいても幸せだよって胸を張って宣言して日々精一杯に活動している姿を見せてくれるのもすごい。こんな娘がいたら親はさぞかし幸せなことでしょう。一見破天荒だけれどもきちんとやりたいこととか自分のことについてきちんと見定めて行動できいるのが慈。いい子だ・・・・・・。
壁を乗り越えて自分がやるべき夢に再度向き合うことを決意した彼女は強い。慈は大きなことを言うがそれをしっかり有言実行する人物である。無事、全国への切符を入手し、ラブライブ決勝戦へと話が移ってゆく。
乙宗梢/スリーズブーケ
正直、どこから何を語れば良いかが困っている。一番好きが故に自分の中で思いが大きい。その時々で感じた良さもありお酒が入った勢いで自分の中の乙宗梢像を断片的に語ることもあるため、彼女に対して贈りたい言葉や感謝の念がかなりとっ散らかっている。それをまとめるべくして今回ブログ記事を久しぶりに書くことにしたというのもある。ここからが自分にとっては本番。
ひとまずDOLLCHESTRAの第8話、みらくらぱーくの第9話と時系列に辿ってきたのでそれに従って書くこととする。
第10話・第11話
乙宗梢について言及するに際して欠かすことができない存在。日野下花帆という存在がある。瑞河高の異彩、セラスの夢と学校の命運を託された寵児桂城泉のパフォーマンスを見て優勝を目指す想いに囚われ普段の自分を見失いかけていた花帆。そこにスリーズブーケや蓮ノ空の面々がどのように関わるかが描かれていたエピソードであった。
前回ブログ書いた【感想】蓮ノ空103期活動記録第15話で言及したラブライブ決勝敗退後のエピソード、梢と花帆との夢が重なり合う話を踏まえるのであれば花帆があのよう身身構えてしまう気持ちも分からなくはない。前回の惜敗を踏まえ蓮ノ空の仲間たちと決意を固め欲してきた決勝に際し、勝負殊に常に終始し勝利を積み上げてきた泉という人物の有り様を一身で揺らいでしまったのである。そこには一年前の梢の涙を見たという花帆にとって忘れ難い記憶があってこそのもの。
ここに対して梢と吟子の立ち回りも良い。
梢は花帆と二人で夢を誓い合った仲である。梢が抱いていた「ラブライブ優勝」の夢に向き合いすぎるがあまり彼女が今悩んでいるのは歯がゆい部分もあったであろう。ただ、梢の方から花帆へ答えを提示することは今回決してできない。それはある意味であの日の誓いを反故にすると受け取られかねないし、視野が狭まってしまった花帆に対して優勝に拘り過ぎないで欲しい、自分を大事にして欲しいというのは混乱を招くことになるからである。梢の言葉は花帆にとって影響が大きいからこそ今回全てを導く立ち回りはしなかった。優勝という共通の目標を目指しつつも元々持っていた各々の夢を大事にしながら切磋琢磨する仲間の姿を見て本来の自分の夢を主題してほしいと案内をしたのが今回の梢の行動である。
そして、同じスリーズブーケの仲間である吟子の行動もアツかった。吟子にとってはみんなで「花咲く」、スクールアイドルとして自己実現をしていくことを導いてくれた存在が花帆である。吟子が花帆のことが大好きであるということがこの10話にありありと詰め込まれていた。大好きな存在が自分の在り方について悩み始め、光、笑顔を失っていく。あまつさえ、今まで一緒に過ごしてきた時間や自分が大好きな存在、花帆のことを花帆自体が否定してしまうなんてことは認めがたいものであった。だからこそ花帆のことを想って色々と寮母さんに掛け合ったりと行動していた。
仲間に触れあうことで花帆は本来の花帆自信を取り戻すことができた。蓮ノ空のメンバーが花帆のことを大事に思っているからこそ、また、花帆が大きな光を持つ存在であることが再度描き直されていた。自分の在り方が揺らぐことは確かに辛く厳しいものではあるがそこを超克した人間は揺るがないものを有することができる。それが花帆にとっては「花咲く」である。勝ち負けも大事にしつつもそこに終始せず、「花咲く」を取り戻したからこそ瑞河とのプレーオフが成った。梢先輩が問いかけた花帆にとって足りないものは、花帆が持ちえない、欠けていたものとしての足りないものではなく、花帆自信が持っていた強み、夢を再度気付いてほしいという意味での「足りないもの」であったわけである。
梢も梢で自分の「ラブライブ優勝」という夢について問い直し、当時は気づき得なかった別の意義が込められていたことに気が付く。ラブライブ優勝というのはただ勝ち負けという意味で目指されるものではなく、その過程、輝きを持った仲間たちと同じものを目指してその瞬間その瞬間を駆け抜けることに意義があったと知る。そこから自分個人の願いだけでなく他者の願いというのも自分の願いと同じくらいに掛け替えのないものであり叶えたいと思うようになる。梢の口から「私はなにももっていない人間ではなかった」、「ありがとう・・・・・友達に、なってくれて」、「今はもう、私の胸には、感謝の気持ちしかないの。」といったような心中からの言葉が出てくる。
彼女は103期の末に至るまで花帆にさえ自分にとっての夢の重たさ、もたらす意味について曝け出さなかった女性である。そんな彼女から皆に対しての感謝と自身への肯定の言葉が出てきたことの意味について感じってしまった。乙宗梢という少女の内に満たされた熱い熱がその発言を通して読み手のわれわれに入り込んでくるのである。私は殊に彼女のセリフの重たさや熱に入れ込んでいるので私自身の胸もいっぱいになった。また、彼女の綴る言葉は繊細で美しいが時に簡潔さに欠ける。ストレートな言葉を用いるのがあまり得意ではないのだと思う。そんな彼女から「友達」というフレーズが出たことについても大三角の信頼関係性を如実に表していると言えよう。
そして、決勝戦、プレーオフを果たし、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブはラブライブ優勝という栄冠を手にする。
第12話
梢にとって優勝という夢を果たした先に何があるのか。
先述のように大三角の中で梢と綴は自分の願いを叶えることができた、その先を如何ように自身があるべきか、進むかで梢も思い悩む。
普通の物語であればそのキャラの願いを叶え、そのままエンディングへ歩を進めることも少なくないであろう。
ただ、蓮ノ空に関して言えば卒業という否応なく転換、時間の流れにに向き合わなければならないというリアリティさが際立つ。卒業して102期生は一度幕引きにはなるわけだが後輩たちが継いでゆく蓮ノ空、105期、106期というものがあることから作品自体が終わるわけではない。その点で102期生も卒業した後も蓮ノ空との連続性があるわけで、卒業後どのようなことに向かっていくのかということについて作品できちんと描くというのは重要なのである。
そこでの梢の葛藤。自分の中で歩み続けた場所に辿り着いた後どこへ行けばいいか分からない、幼子のように自分の手を見つめるシーンなどが印象的であった。あの繊細かつ熱を持った彼女から生まれる歌詞も今や湧いて出てこない。
ユニットとしての集大成の曲を作らなければならない中で梢は悩む。それこそスリーズブーケというユニット、後輩たちに関わるものでもある。自身にまつわる物事と花帆や吟子、他者から求められていることの両側面について考える事ができる(考えてしまう)のが彼女の特徴、魅力でもある。自身としては尽きたような感覚を覚えていながらも、自身の集大成よしての曲作り。それは、後輩たちのためにやらなければならないこととしても残っていた。ただ考え抜いても答えは出なかったために一度後輩たちに歌詞作りを託そうとする。
ここから吟子と花帆のフェーズに入る。大事な先輩の為に何ができるか考えた。
吟子と梢のデートシナリオも良かった。
コンサート、ライブ、オペラとの梯子、体力が化け物。自分も大学時代に音楽ではないが、絵画鑑賞を3,4つ展覧会を一日で梯子したことがあったがかなり頭が疲れた覚えがある、良いものを愛でて自分なりに鑑賞して解釈することは楽しいが体力も気力も使う。良いもの、美的なものを摂取することによって自分の感性を刺激する、蘇らさせようとする試みは確かに共感できる。自分にとって仕事で疲れた身でありながらも日々の活力や感性の復活に寄与してくれたのは蓮ノ空という作品であった。
そして、梢とそんなことできるなんて羨ましい。自分もライブは言わずもがな、かつてはオーケストラやらオペラやらも見たのが懐かしい。見た後に梢先輩とか先輩と語らい合ってみたいものである。大学時代の梢先輩とそれをしたい。
かなり話がずれたので戻そう。つづいて花帆へ。
花帆と梢の一夜の逃避行、こずかほ好きな方は言わずもがな、好きな人は多いのではないだろうか。
最期に卯辰山にて夜が明けるのもにくい演出である。ラブライブ優勝を誓った場にて、その誓いを果たした後に、二人は誓いの場で相対する。
朗らかな表情で「──次は、どんな夢を見ましょうか?」と声をかけてくる花帆、まるで啓示めいたものさえそこから感じてしまった。花帆が投げかけた言葉は花帆が意図したものとは別の部分で梢に響くこととなる。今までは漠然とした脱力感や達成感だったものがこの夢のような一夜で梢の中で明確に形づいたものとなる、自己の中で「区切り」がつき、夢が覚め、自分が何故このような状況にあるか、歌が作れなくなっていたかを直視したのである。
そこから出てくるのが綴である。
吟子と花帆はあくまで後輩であり、卒業などやそこの先について共に悩んだり感が合えたりするにはどうしても限界がある。それは思いや仲の深さという問題ではなく立場の問題であり、ここで3年生の綴が出てくる。同じようにスクールアイドルという夢が叶ったがそれがもう直に終わり、先を見据えなければならなくなる。同じ問題に直面し同じように悩んだが末に答えを見つけた綴が出てくることに意味がある。
綴が自分の夢を始めて吐露する、ここについても両者の信頼関係性などが読み取れる。また、夢を果たした者が新たにまた別の夢を見出した。これを目の当たりにすることの意味を綴は分かった上で言っているのも流石だと思う、さすがは人を導く職、先生を志しているだけある。
綴から上記内容を伝えられることで梢は、その時は真意までに辿り着くことができていなかった吟子の更に自分の夢を追い求める姿や花帆の次の夢、という言葉について再度考え直すことになる。自分の中でつけた「区切り」についても再考する。
個人的に個々の問答で刺さったセリフとしては綴の「ボクも知らなかったけど、どうやらあ、人生は長いらしい。きみの人生に、幸あれ、だよ。」である。蓮ノ空のセリフの中でも有数でお気に入りのセリフかもしれない。この言葉は人の生の真実を一つ示しているものでもある。ここでいう長いとは人生そのものが長いという意味ではなく、人生はこの先も続いていく、という意味で「長い」と言っていると解釈するのが正しいであろう。蓮ノ空は過去、今(今この瞬間)、未来と時間軸というものについて真っ向から考えに考え抜いて作られた作品である。その中で今この瞬間ということや時間というものはすぐに過ぎ去ってしまうという話が度々出てきている。そこから言えば、人生が長いというのは単純に長いという意味ではないと推察できる。
そして、人生が続く、というのはこれは私個人の私的な思想、ショーペンハウアーやらキュルケゴールなどを頼りにしつつ生きなければならなかった自己の抱えた生きづらさ、やや厭世主義的受け取り方でもあるが残酷な現実でもある。人生が続くのは厳しく耐えがたい。それこそ梢が言っていたように努力しなければならない。走り続けることは痛い苦しい。快と幸だけで成り立つ生なんてものはこの世には存在しえない。生には痛みや苦しみが常に付きまとう。(ここで『be proud』が活きる。)
そんなだからこそ、その次の言葉「きみの人生に、幸あれ、だよ。」が良いのである。このセリフは二段構えで胸を突き刺してくるものがある。人生の肯定がここにある、人生への祝福がここにあるのである。生半可な好きなどとは比べ物にならないくらいの言葉、梢という存在への圧倒的な信頼と肯定、もはや告白、プロポーズのようなものである。これをサラッと言うことができる綴がすごい。
また一人で走り続けなければならない、と最初憂いを振り切ることができずに逡巡を見せた梢だったが再度一人じゃないと綴が呼びかける。きっとそれで梢もラブライブ決勝戦前の自身の言葉、「私はなにももっていない人間ではなかった」ということや「いいライブをしたら次はより良いライブをしなければならない」といった自身の言葉も彼女の心には再解釈することとなったはず、なにせ戒めバカだから。他社から受け取った言葉を通じて、自分の言ったことについて考えないはずがない。
そして、前を向くことができることになる。
ここの吟子、花帆、綴の三段構えの構造は話としてよくできていた。
【卒業】第14話

各々のユニットの最後のやりとりがえがかれていた。今までの話では送られる者、102期生中心の物語であったが、最後は残されるも者、送る側103期、104期生側が主体となる。105期に進むにあたってそれは必然である。
先行く者が前を向いたから、新しい道へ進む際に、それ祝福するというのは当然のことである。彼女らのように親密な中であれば言うまでもない。
ただその祝福の気持の中と同時に寂しさや悲しみといった感情があってはいけないという訳ではない、その気持ちは混在する、人であるが故に。その寂しさとどう向き合うかを考えたが末に、日野下花帆が輝く。
とにかくこの第14話については日野下花帆という少女に感謝しなければならない。特に半年前、2025年の10月あたりから出遅れて蓮ノ空にハマった自分としては花帆の動きは救いである。
また、「みんな」が花咲ける新しいステージをやろう。102期の先輩たちも一緒に。
2025年5月より始まる6th『Bloom Garden Party』、ここで私は102期生、ひいては花宮初奈さんが演じられる乙宗梢という少女に生のライブで初めて立ち会うことができることとなる。これがなければ私が102期生を見るという機会も巡り合えなかったやもしれない。(ラフェスもあるが、『蓮ノ空』という作品の文脈に連なるもので言えば会えない可能性が高い。)
だからこそ自分の寂しさと向き合って、やっぱリまた一緒にいたい、一緒に花咲きたいという願いを持ってくれた、その願いを諦めないでいてくれた花帆には感謝の気持ちしかない。本当にありがとう。
【独白】乙宗梢の行く道に幸多からんことを
ここからは『蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』という作品からやや逸脱する、私という個にとっての乙宗梢という少女に対する想いを卒業という節目を期に語るものである。
蓮ノ空という作品の感想という点においては脱線するため、人によってはまとめへとここの章を飛ばして読み進めて欲しい。(今までのブログの記事や自分の酒に酔った際の駄文を見ている人は分かるかもしれないが、いつもの「アレ」が始まります。)
本題へ。
乙宗梢、ひいては蓮ノ空にハマったのは実は曲からであった。私という人間が曲からハマるというのは滅多にないことである。このラブライブ界隈に車で局に真っ向から向き合うということは余りしてきていなかったし、どちらかと言えばストーリーやその中で描かれるその人物の在りようから好きになって掘り下げることが殆どである。
その中で新卒で全国転勤型で会社に入り、ひょんなことからまず沼津という土地に来た。そこからラブライブサンシャインに触れ、ラブライブシリーズというものの触れることとなった。
ラブライブシリーズの曲を何ともなしに自転車を漕ぎながら聴いていくうちに「何となく」、スリーズブーケの曲に魅力を感じた。そして、その中でも『be proud』、この曲を聞いた瞬間に自分の中で明確な自覚を以って、好きだという感情が芽生えたことを今も覚えている。
曲の冒頭から始まる梢の独白、その中で出てくる言葉が「今度こそ 人間(ひと) として美しく在ろうと思う。」
めちゃめちゃ好きな一節なので再度書く、「今度こそ 人間(ひと) として美しく在ろうと思う。である。
なんだこれは???と最初聞いた時には感じたのを覚えている。本でも読んでいたのかと勘違いしてしまうようなほど言葉に厚みや重みを感じた。その先の歌詞一つ一つについても同様である。『be proud』そのものについてはまた別の機会で一つの記事として取り上げたい、今回の記事にしてもそうだがやはり物語を主軸として解釈し、それにのみ終始書き続ける癖があるの曲なども織り交ぜて評するのは慣れていない。ただし、こういった界隈にいるのだからチャレンジはしてみたいと思う、どうせやるならば心から大好きな曲で。
話を戻すと歌詞に惹かれた。そしてそのような歌詞を書くような人物にも当然興味を持つことになる。初対面にして『be proud』に心酔した、今思えばこの時点で梢に惹かれるのは決まっていた。
そして、活動記録を読み彼女自身の人となりを知ることになる。知れば知るほど『be proud』という曲も含めどんどん梢を好きになった。
出会ったタイミングにしても絶妙で会った。私が仕事に揉まれ感性も有り様もズタボロになっていた頃に梢と出会った。彼女の等身大の姿、自分で必死に思い悩みながらも美しく在ろうとするその姿に私は感銘を受けたのだった。
それは仕事で憔悴し、色を失った世界に彼女という鮮やかな緑色が目の前に咲いた。希望の光のようであった。道行く先なく荒廃した砂漠を彷徨う旅人が、生の根源を為す水の源泉を見つけたようなものであった。そこに救いがあった。
具体的なエピソードで言えば会社のマラソンがある。沼津の狩野川マラソンに会社の付き合いで出ることになったが狩野川を仕事終わりに走る上で梢のヌイをポケットの中に入れ、日々ともに走っていた。半日以上会社の缶詰で延々と働いた後、あの凍える1月の夜に走ることができたのは梢の存在有ってこそである。日々辛いことがあっても彼女ならここで折れるであろうか、彼女ならこの疲労を理由に為すべきことから逃れ得るであろうか、梢推しとしてそのような振る舞いでいいのかと自問し抗うことができた。
私は割と他者、他のものから受けたものを自分の中でどう解釈するか、場合によってはそれをどう自己に取り入れるか(これを内面化という)、を実践してしまうきらいがある。正にキュルケゴールで言う客観的思考(客観的に事実として捉える)に留まらず、その事実や物の有り様を私という主体に取り入れ意義をも言い出すという考え方がこれに当たる(これはともすれば、小学校とかオタクになりたてのはじめから持ってい居た気質だが哲学的にキュルケゴールに近しいというのは最近FFの指摘から気が付いた)。左記のような、実存的実践をしたがる、それをしなければ真っ当に生きることもできないという弱さを持っている。伽藍洞の中身を埋めるために行った生きづらい中でもなんとかするという意味で生存戦略でもある。
無神論実的存主義もあればキュルケゴールのようなキリスト教的実存主義もある。それならばオタク的実存主義もあってもいいのではないかと思い、キャラの有り様を自己の人生にも敷衍し抗ってきた。
その点で今まで自分の中では今まで下記の作品キャラクター、()の中記載のセリフやキーワードの単語を主体化してきた。
『Fate/staynight』のイリヤスフィール/バーサーカー(「バーサーカーは最強なんだから/十二の試練」)、『ローゼンメイデン』の水銀燈(「私は・・・ 私は壊れてなんかいない・・・ ジャンクなんかじゃ・・・ ジャンクなんかじゃ・・・!!!」)がそこに当てはまっていた。
ここで話に戻る。何かと3つ、三大○○、トップ3、三本柱というように3つで表現することが多いが最後の一つ、オタク的精神性の最後の空席に座ったのが梢という少女だった。上の表現に従うなら『蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』乙宗梢(、「今度こそ 人間(ひと) として美しく在ろうと思う。」)がここに立った。
いわ私的「三美神」がここで成ったと言っても良い。
ここに位置するともはやその作品の文脈さえも離れ自分だけの「乙宗梢」といった像を持ち始める。何か自分に対し内省し問い直す時、耳元で囁くようになるのである。ここまで来るともやは推しといったものではなく「信仰」に近いものとなる。そのため、私が語る梢というものは世間一般で言う、それこそ蓮ノ空としての梢であり続けられるかどうかは正直怪しいという問題はある。
既に自分の中で一番の作品であるイリヤ/バーサーカー、次いでの水銀燈はその域にあるが、いずれ梢もそうなるであろう。
彼女が言う「誰かの心に生き続けられたら」という一節をある意味で実践している、叶うとも言える。あまりにも厄介も厄介、彼女も現にいたらこんなふうに思われるのは望んでいないとは思うが・・・・・(そも、現に生きている人間であれば内面化なんてものは出来ようもないし、それは個の侵害に当たるためしてはいけない。)
彼女の自分の信念と目の前の現実との合間で揺れう動く姿や葛藤、責務と向き合いながら成長をするストイックな姿にこの半年間勇気づけられた。梢は煌びやかで真面目で優等生に一見して見える。ただ実際は一人の人であり女の子、人間としてのめんどくささも年頃の女性としての可愛らしさや未熟さもある、そういったものを併せ持つ彼女の人となりが心の底から愛おしく思えた。文学にしても無頼派のような人間臭さが匂いたつ作品が好きなので余計に琴線に触れた。
彼女の歩み続けるものがあたりに何度も心を動かされ、落涙した。
心からの感謝と祝福の気持を捧げたい。
まさかこの歳にして三人目に入るくらいに好きになるキャラクターと出会えることになるとは夢にも思っていなかった。それこそオタクとしてもう蓮ノ空が最期であっても良い、なんてことも考えなくもない。割と古臭いオタクなので、まさかこんなに新しめの作品にハマることになろうとは・・・・・想定もしえなかった。
ありがとうございました、これからも貴方という存在を胸に私も日々抗い続けていきます。あなたが魅せてくれた物語は私のとっての「実存」となるものでした。
貴方という存在の行く花道がより良いものでありますように。
ご卒業、おめでとうございます。
まとめ
有り得ないくらい冗長的な文章となりました。
本来読み返して推敲し直すべきものではありますが、時間ももはやない、それをやっていてはまた記事がお蔵入りになりそうなのでこのまま書きとおします。
自分にとって蓮ノ空がそれなりに大きな存在であることはある程度表現できた記事にはなったと思っています。
前回の104期第15話の感想時にも言及したが、またもやほぼシナリオのみの感想で終わってしまった。
ラブライブというコンテンツは曲とシナリオの関連性がある。また、蓮ノ空に限って言えば曲だけでなくWith×MEETS、ラジオ、Fes×ReCを含めたライブなど、リアルタイムかつそれぞれが重層的な関わりを織りなして作品の重厚感が表現されている。その点で言えば、私なんて活動記録を必死に読んで聞いたに過ぎないのだから蓮の魅力なんてもの上辺のみしか分かっていない。作品への理解度も蓮を長く追っている周りのFF,友人らに比べればお粗末だと思う。本来こんな記事を書いているのが烏滸がましいくらいには。
ただ、あえて書き、逆のことを言うのであればシナリオのみでもこれだけ言及できる、心を胸を突き動かされる、「生きている」キャラがいるストーリーだということは言える。シナリオがめちゃめちゃいい、これだけは自信を持って言える。(後に引用する自分のエロゲ作品点数ランキング見ればシナリオ偏重のオタクであることが見て取れますが、蓮ノ空には唸らされました)
104期で梢たちは卒業してしまうが105期も追いたいとは思っている。
蓮ノ空女学院として今後がどのように有るのかも気になる。また梢たちが大事に想った後輩らのエピソードだし、そこにはきっと直接出てくることは少なくとも、102期の代が残したものの影響なども含まれて作品は描かれるであろうために。
(102期のと連関性はもちろん要素として大好きで、出てきたら感極まってしまうとは思うが、それとは別に個としての103期、104期の生徒らとも向き合わなければならない、像を重ねすぎず個人としての読み取りも深めたい。ここは今後見るにあたっての戒め。)
『ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』、自分にとって魂の作品です。
最期にやや脱線。
元々エロゲーマーにつき、その時の作品点数表、後久しぶりにブログの記事を書いたので言及した作品や文字数も含めて振り返ると下記のような感じになる。
今回のブログがどれだけの量の位置するのか振り返ってみる。


自己紹介として便利な書式があったので借用させて頂きました。
— チート部長@沼津在住 (@cheat_IE) 2023年9月6日
批評空間のサマリーはこちら(https://t.co/4FTwFrpuAA)
プレイした都度に批評空間の方は点数をつけて更新しています。
よろしくお願い致します。#美少女ゲーム履歴書#エロゲーマーと繋がりたい pic.twitter.com/iBxwx7LvU4
Xの固定ツイートに張られている批評空間のリンク。
ここを開くと自分の触れてきた作品の点数表を見ることができる。
採点基準
100 思い出補正あり、自分の中での至高の作品
90〜 どこかしら自分の人生、物事の考え方に影響を与えた作品
85〜 面白い、そしてこの作品だからこそという光る何かしらを持っている作品
80~ 面白い、良ゲー
75~ 思うところは若干あるがまずまず面白かった作品
この採点基準に照らすとすくなくとも蓮ノ空という作品は乙宗梢という存在も相まって90点台には位置する、恐らく94点あたりになる。
また、ブログの記事の文字数で振り返ってみる。文字数が長い=好きな作品には直ちにはならないが、少なくとも思い入れが無ければ文字を書くこともできない。
記事で振り返ると
48335文字
これは梢に対して綴ったような内容をさらに色濃くした自分の学生時代に対する振り返りをするもの、独白のようなものなので今回そぐわない。文字数は断トツ
22007文字
単体の作品で比較的長いのはこれ、90点に位置しているのもあり思入れ深い作品ではある。内面化出来た作品、ジークの立ち回りとサークルの会長としての自身を重ね合わせていたような・・・・・・。
18272文字
三部作まとめということで何期、と分かれている蓮ノ空に形式としては近しい。燃えゲーにして泣きゲー。
そして蓮ノ空について、前回の書いた記事と今回のもの(前回4195文字+今回約16000文字)で20000くらい
4195文字
104期見た後に103期も振り返るとより味がしてくる、作品の連続性よ。
社会人になってからアのブログで言うというまでもなく一番長い。
それくらいの熱を与えてくれる作品ではあった。
改めて104期活動記録へありがとう。
102期生の皆、そして大好きな梢へ、卒業おめでとう。
ここまでお読みいただきましてありがとうございました。