cheat_IEの雑録

趣味関連のことを書きます。

【独り言】学生時代、最後の夜に何を思う

これはいつもの記事のように何かきちんとしたテーマに沿って書くものではなく、新社会人になる直前に際して、あまりのそぞろさに耐え切れず記事を書き始めた次第である。

いわば、細かく文を遂行せずに投稿しているXのポストの延長線上のようなもので記事というには些か軽薄なものとなる、つまり、私のただの独り言だ。

目次もなければ太字などのグラデーションもない、ただの羅列された独り言である。

例の如く人様に見せるために書かれた皆様が挙げられているような立派な記事ではない。

もし、ここまで読まれる方がいた場合、以降の内容は上記のようなものが続くということを最初に断っておく。

 

以降独り言。

 

もう後間もなくで4月1日になり、その日から私は会社に正式に属し、働くことになる。

具体的な物事に対する不安などはない。私は幸い人と関わることはそこまで嫌いではなく、この前の海外旅行で実感することとなったがどうやらコミュ障でもないらしい。

では、楽しみかと言われるとそうでもない。私にとって直前まで行っていた大学生活は代えがたいものであったし、過ぎ去ったことに名残惜しさは多少なりとも感じる。

 

そして、後ろ向きとも前向きとも言えない何とも言えない感情を抱えることになっているのは私が選んだ働き方に起因しているであろう。

大きな理由の一つに全国転勤ということがある。

卒業式でも、またその他でも人に会うとどこで勤務するのかという話を度々聞かれるが、未だに決まっていない、なんなら、業務の内容さえもそうである。

研修中の行動や人事との面談、会社の都合といった諸要素を鑑みて研修後に決まることになっている。そのため、今のところは所属する会社自体はあるものの宙ぶらりんに似た状態であることには変わりない。

これが私が今直面している状態である、何とも漠然とした状態だ。

 

そのような状態に至ることになった全国転勤だが、私がそれを選んだのには理由がある。それは、私という存在がどこまで一人でやっていけるのかということを確かめたいという思いがあったためである。

 

元より私は家を出ていきたいという思いがあった。

これは家族仲が悪いという訳ではない、特別良いわけでもないが、普通である。思想信条の部分が父と乖離するところがあるため、そのことになると時折険悪にもなるがそれを除けばなんていうことはない。

むしろ、私は好き勝手させてもらっている身で、良い大学生活が送れたことも親の存在があってこそのため感謝している。

ただ、昔からどこか後ろめたさがあったのである。誕生日など特別な日に物を貰うことは違和感なく受け取っていたが、特に何もない日に買い物に出かけて物を買ってもらうということに私は子どもの時から違和感を感じ、遠慮をしていた。「お世話になっている」という観念が常に纏わりついていたのである。

それ故に自立したいという思いがあった。これが一つの理由となる。大人として自立する、社会人として働くのであればきちんと家も出るということを私は条件として入れなければならないと考えていた。

 

この思いについて幾らでも批判は浮かぶ。まず、大学まで面倒を見てもらっているにもかかわらず中途半端な所で遠慮をしていることがおかしい。勝手な自己満足にすぎないと一言に付されたら私は閉口する他ない。親は気にしていないと言われればそうかもしれない。

むしろ、そういう風に思っているのであればあえて家に残り、働いて家のこともやって、家族を支えるべきだと、親に孝行するべきであるという意見も一理あって正論である。

 

ただし、私はそうしなかった。離れてみて、無くなって分かるものの大切さというものがあるが、この場合あまりにも無くなってでは遅いため、あえて私は今まで享受してきたものの貴重さを自覚するために家を出ると決めたのである。聡い人であればこのような行いをすることもなく、日々の親の行いに感謝をし、身近に寄り添って感謝を伝えられるであろうが、私はとことん愚鈍な人間である。そんなに綺麗で要領のいいことはできない。自身を突き詰めなければどうにも理解も出来ないし動けもしないのである。

受験期に家では決して勉強を行うことができず決まって塾の自習室に通い、そこが開いてなければ地域の地区センターやコーヒー屋で勉強していたがそれと似通っているところがあるかもしれない。厳格な場に身を置かねば私は真っ当に行動することができない、甘えてしまう。それ故に離れるのである。基本的に私という人間はどこまでいってもエゴに囚われている。他人のためと言いつつも、自己満足をするために行動している。カントの言う「他者を手段ではなく、目的として扱え」という命題を反故にするのである。

 

また、二つ目の理由として人間関係がある。

私の今までの人間関係は極めて良好で、恵まれたものであった。

幾つかのブログ記事にも表れているようにやや屈折した人間であるこんな私だが、小・中・高・大、どれをとっても恐らくこれからの人生連絡を取り続けるであろう友人がそれぞれ少なからず一人以上はいる。

私にとってこの恵まれた人間関係、私に良くしてくれた他者は私にとって生きる理由の指針となるほどに良いものを与えてくれた(それは時に物そのものであったり、一緒に過ごした時間という想い出であったりと様々だ)

このような自分だが、あえてそれらと容易に関わることができない環境に置かれたとしたら私はどのようになるのであろうとふと疑問が沸いた。生きる理由になりえるほどのものと離れても私はきちんとその思いを胸に日々真っ当に過ごすことができるのか、気になったのである。

また、新たな環境に身を投じることでまた別の人間関係をさらに広げることができるのか、私の生き抜く力がどれほどのものか気になったのである。

ただし、この二つ目の理由は一つ目の理由に付随するようなもので、理由の九割ほどは一つ目の理由が占めていると思ってもらって良い。

 

最期の理由は私が第一志望としていた業界に入ることができなかったということにある。その業界で働いた場合、十中八九東京勤めをずっと続けることがほぼ確定していた。しかしながら、私はその業界へと進むための切符を得る争奪戦に勝つことはできなかった。

そのため、その業界に行っていたら決してなし得なかったであろう選択を選んでみようと思ったのである。これを行うことで、もし何かしら自分に良いことがあった場合、個の良いことに巡り合えたのはある意味、あの争奪戦に負けたからこそだと言い聞かせることができるのである。

負け犬根性甚だしいと思った方もいるであろう、どうぞ笑って頂きたい。先にも記したように私は愚鈍かつどうやら諦めの悪い人間らしい。どうにか必死に自分を納得させるために取った手段が全国転勤なのである。

 

大まかに記すとこういった塩梅になる。

 

Xを見ていると新社会人生活を前に各々の思いがタイムラインに流れてくるのを目にする。私たちの世代(いわゆる24卒)はコロナによって通常の学生生活の期間を削られた世代とも言えるため、殊更に学生生活が短く感じ、惜しむということがあるのも無理もないことだとは思える。そして、新たな生活に期待を抱く人もいれば不安を抱く人もいるということも当然である。人は道というものに惹かれると同時に畏怖するというのは古来より常である(numinose(ヌミノース)という概念についての議論を以前記事の一部分に出したがそれが分かりやすいであろう。)

 

私の場合、以前の記事に記した通り、大学生活はコロナの期間も含め良いものであったと結論づけているため、幸いあまりにも尾が引くということもない。

むしろ、一定のレベルで全てやりたいことはやりきったという思いが胸にあるくらいである。かねがね行きたいと思っていた私という人間を構成する上で根幹を担っている『Fate/stay night』の聖地巡礼としてイギリスへ行く。酒にしてもアイラ島という場に行き、そこで至上の酒を味わう。

そういう意味では、趣味の面で言えばすっきりとした面持ちで社会に出ることができる。

むしろこれからどのようなことに新たに打ち込んでいくかを悩むくらいである。(その前に積んでいる数多の本とエ▢ゲーがあるわけだが)

 

私はこのように好き勝手させてもらってきた身であるから、これからは私第一ではなく、何かの役に立ったり他者に貢献したりできればという少し気取った考えまで出てくるくらいである。少なくとも今まで私が享受した分は何かしらの形で返したい、いや、返さなければならないと思っている。(これも前回の記事にて書いた。)

 

少々脱線したが、今の心境はこういった塩梅である。

 

一通りひとまず書きたいことは記すことができた。

 

書いている間に日を越して4月1日となってしまった、これから頑張っていこう。