cheat_IEの雑録

趣味関連のことを書きます。

穢翼のユースティア 感想

 

 

どうも、チート部長です。

今回は『穢翼のユースティア』(以下『ユースティア』と表記、キャラのユースティアはティアと表記とします。)について簡単ではあるものの感想としてまとめようと思い、記事にを書きました。

この作品は本当に面白かったです。

大学1,2年生の時に出会い、じっくりと時間をかけながら感想書けたならばより作品として楽しめただろうなあ・・・・・と思います。

前置きが長くなっても仕方がないので、本題に入ると致しましょう。

 

 

 

 

 

穢翼のユースティア』とは

©AUGUST

そう新しい作品でもないのですでに多くの記事があり、ここで説明する必要もないとは思いますが書いておきます。

穢翼のユースティア』は株式会社葉月(通称AUGUST)が2011年4月28日に発売したゲームです。その後、PS VITA移植版である『穢翼のユースティア Angel's blessing』が2014年6月26日に発売され、最近では2022年6月23日PlayStationNintendo Switchの移植版が発売される予定となっています。

 

あらすじ

悲劇は往々にして不条理なものだが、これほど不条理という形容がしっくりくる悲劇もなかった。

その日、この都市の一角が多くの人命と共に大地へと崩落した。

性別、年齢、人間性、地位、経済力……。

犠牲者に一切の区別はなく、ただそこにいたという一事だけが、彼らの命を奪った。

なぜ死なねばならなかったのか。

無数の死に何の意味があったのか。

答えはなく、残された人々に与えられたのは、輪郭の無い茫洋たる喪失感だけだった。

後に≪大崩落≫と呼ばれる悲劇だ。

あれからずっと、この都市(ノーヴァス・アイテル)には不条理の雨が降り焔っている。

上層から下層へと、都市を濡らした水は低きへ流れ、やがて牢獄に集まり澱む。

嵩を増す汚水を取り除く術もないまま、囚人たちはただ喘ぐ。

いつの日か、この都市に日が差す時が来るのだろうか。

 

陽炎が如く揺らぐ世界で少女は幻想を抱き眠る

 

────『穢翼のユースティア』裏パッケージ&HP物語参照

 

 

 

公式サイト

august-soft.com

 

 

 

オープニングムービー

www.youtube.com

 

 

 

体験版ダウンロードWebサイト

august-soft.com

 

 

 

 

 

注意喚起

以下よりネタバレ込みの感想を書きます。

未プレイの方はブラウザバックを推奨します。

 

 

それでは内容について言及していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロローグ

オープニングが始まる前の部分です。

主に作品の世界である上層、下層、牢獄(最下層)の状況とその中で生きる人々の暮らし、そして、主人公(以下カイム)と少女ユースティアの出会いが描かれます。

まず、作品の世界観が見事にハマりました、面白い。

何の不自由もなく、奢侈といった贅の限りを尽くしたような生活をする上層の貴族から一般の下層の民、そして主要なキャラクターが属する劣悪な環境の中でも、醜くても必死に生きる牢獄の民という風に三層に分かれています。

 

最近人気の作品である『呪術廻戦』のキャラ、伏黒恵のセリフで

 

「不平等な現実のみが平等に与えられている。」

『呪術廻戦 第一巻 9話』より抜粋─────伏黒恵のセリフ

 

というものがありましたが、正にそれを見えやすい形で区別し、表現したのが『ユースティア』の世界です。

現実でも〇〇ガチャ(ここには様々な言葉が入ると思います、よく話題に上がる例では親、国などでしょうか)という言葉が見られ、格差社会が進んでいるということもあるため、ただの空想の話という訳でも強ちありません。

そのような理不尽な中で運命といったものに振り回される人々は、どのようなことに注目し、生きることができるのかということについて考えさせるきっかけを与えてくれる力をこの作品は持っているように感じました。*1

作品としてのテーマ性やメッセージがはっきりとあり、その主軸を確固として保ちながらもまた、各ルートで別の視点からのテーマがある、といったような感じで読んでいて飽きませんでした。

 

 

 

 

 

閑話休題

ということで、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

恐らく一つ、疑問に思う節があると思われるのでそれについてお答えさせて頂きます。

 

こいつ、作品の具体的な内容から話題は離れ過ぎじゃない?ということです。

これ、毎度感想書くたびに痛感しているのですが自分にはそのきらいがあるようです。

作品の具体的なストーリー要素から離れ、それが書かれる元となる目的や意思を探りたくなってしまいます。

この欲求には自分も正直頭を悩ませていて、この在り方で作品との向き合い方は果たして正しいのかと自問自答することもしばしば。

そもそも、作品というものが目的や何かしらの価値づけをもって生まれてきたという前提が自分の中にはある*2のですが、それを重視するあまり内容から離れすぎてしまうのも問題だとは思うのです。

 

フィクションの内容について現実のことを用いつつ論ずるなどどうでしょうか。

実際昔の自分ならばそんなことは無粋だと、フィクションについてはフィクションの中でだけ語りうるものを語れと主張するような気もしますが、今ではもう変わってしましました。(大学で学びはじめたり、すば日々という作品に出会ったりした時から、様々な点で元々持っていた思想から離れ、大転回することになったのですがそれはまた別のお話)

 

 

また、筆者が敬愛するライターさんの一人であるSCA自先生のツイートで以下のようなものもあります。

創作者の方的には回りくどい言葉よりも明確に好き/嫌いで分けられる二元的な考え方の方が響く、というのはなるほど、と思わされました。

端的で分かりやすい感想の持つ強みは周知されてよいでしょう。

 

しかし、こういった自覚がありつつも結局自分の欲求には従うことになっていそうです。

作品とは人間が作るものであり、人間は現実で生きるものです。

そうであるとするならば人間は現実から影響を受けるものですから、人間から生まれる作品にも現実が反映される部分もある、と言っていいのではないでしょうか。

自分にとって大事な作品、時にはバイブルと言えるような人生観にまで影響を与えた作品などある人もいると思います。

これを考えると自分の作品との向き合い方は一つの在り方としては間違ってはいないのでは、と思いこのスタンスで書くことにします。

 

Twitterでよく作品との向き合い方、感想について物議を醸すことが度々ありますが、あれも考えてみると仕方がないことなのです。

専門家が集うアカデミックな場、例えば芸術鑑賞のやり方においても意見側が割れ、論争が巻き起こっている*3という現実を踏まえると、いろいろな考えを持つネットで意見が割れるなど当たり前のことでしょう。

上のようなアカデミックの場ならいざ知らず、私個人としては趣味の範疇なのであるならば成否も無し、先ほど出した完全な主観に基づき好き嫌いを言ってもいいと思いますし、逆に考察といったように深く考えるのもまた良いと思っています。

 

 

・・・・・ということなのでここでも好き勝手させてもらいますね(正当化)

 

何故こんな長々と面倒なことを書いたのか、それは『ユースティア』という作品が自分のスタンスと絶妙にあっていて書きやすいとプロローグを書いて実感したからです()

テーマが明確で分かりやすいが故にいくらでも掘り下げられそうだったので、このまま了承もなく書き続けるのは少々危ういと思い、閑話休題を使ってここでおことわりの言葉を書かせてもらいました。

身も蓋もなくいってしまうとこの記事は自分が書いた中で未だかつてないほどに「ダルい」文章です。

お付き合いいただける 酔狂な方 海よりも深く空よりも大きい心の持ち主の方がもし、いらっしゃいましたらご付き合いいただけると幸いです。

それでは各ルートについて書きます。

 

 

 

フィオネ

©AUGUST

「自分で物事を考え、決定し、行動するということ」

 

一言で言えばこれに尽きると思います。

このキーワードは何もフィオネルートに限るものではなく『ユースティア』の作品通して重要なテーマではありますが、それが色濃く出ていたのはフィオネルートだったため、ここで主に語ります。

国家に対し誠実にあり、支える役割を担った家柄の少女であるフィオネ・シルヴァリア。

よく言えば公明正大、悪く言えば杓子定規です。

なので、下のような諍いも生まれます。

©AUGUST

そもそもフィオネは下層の人間、贅沢とまではいきませんが下層では飢えも命の危険もなく、それなりの暮らしがあります。

対して、牢獄は飢え、貧困、治安の悪さ・・・等々いわばスラムのような状況で酒や薬物、売春なども蔓延るのが当たり前でした。

そのような状態を見て、フィオネは非難をするわけですが、カイムは牢獄の民の現状を知るものとして反論をします。

上のシーンはフィオネが娼婦に冷たい言葉を浴びせた時のものです。

フィオネは国が介入などをし、娼婦をなくせば治安や風俗は改善されるといいましたが、カイムはそれに対し「娼婦はいなくなっても買う方の欲望は残る。」と言います。

これはカイムの言い分が正しいのではないでしょうか。

国の介入や規制やルール付けによって物事を全て片付けられるわけではないことは明らかです。

問題について検討する時には根本の原因まで突き詰めて考えなければならないのであり、本シーンであれば結局人の欲に行きつくと。

自分の事柄については人は生まれながら、決定権がありそれに基づいて社会は動いているという原理があります。

身体を元手に資本とし、働くということはそれこそ根の部分では娼婦だろうと一般のオフィスワーカーだろうと変わらないはずです。

危害原理(自己の決定により他人に危害を加える際においてのみ、その決定は制限される)*4にも反するわけではありませんし、お互いの意思決定に従い、行っているもので金銭をやり取りしているのですからとやかく介入される謂われはないでしょう。

もし、仮にフィオネが主張したように娼婦を無くしたとしたら、クローディアらはどのようになるのか、牢獄で捨てられて野垂れ死ぬことと同義です。

次に、フィオネの立場に立って反論を講じてみましょう。

物事を考える際には自分から見えるものだけではなく他人などから見える立場について考えることも肝要です。*5

考えてみた結果、二つの反論が浮かびました。

まず、一つ目に「セックスワーカーは容姿やそれに伴った年齢に左右される要素が大きいために、継続的な生産性を生むのが難しい」というものです。

これに対して、運動神経の資質が大きく関係するスポーツ選手などもあったり、自衛隊に至っては本人の資質に関わらず他の職よりも早い年齢となる55歳で定年退職というのが決まっていたりするという事例をあげることができます。

セックスワーカーに限らず、年齢に左右される職はあるということです。

更に言ってしまえばセックスワーカーの場合には一概に年を取ってしまったらダメ、という訳ではなく新たな層からの需要にこたえることができる可能性もあるため、継続的でないと一蹴することは論を急ぎ過ぎと言えます。

二つ目は「感染症や妊娠のリスクがあることはもちろんのこと、その他暴力沙汰といった事件に巻き込まれるリスクも高くなる」というものです。

これは間違い様もない事実です、実際『ユースティア』の作中でもリサかアイリスが了承もなく客から殴られ、エリスの治療を受けるというシーンもあったかと思います。

この反論は一つ目の反論よりもなかなかパンチがあり、回答に窮する部分してしまいます。

強いて言うなればリスクがあるのは確かだ、では、そのリスクをどうにか対処する方法はないだろうかという意見を行うことでこの反論を捌くことができます。

暴力などの事件が起きた場合にどのように対処するか、そもそもそのような行為を行うこと自体を契約を結ぶ時点で咎めるようにする、などです。

一つ目の反論の場合と同様に他にもリスクがある仕事、命にかかわるう折大きいリスクを持つ仕事もあるということをに目を向け言い返すこともできますが、二つ目の論は違法性が関わる点でリスクはリスクでも同列に語れるものではないということが厳しいです。

そもそもの前提として未だに私は童貞(唐突のカミングアウト)

ここで論じられているものは現実に取り巻く複雑な感情や背景を簡略化した上での理論的なものであることから、経験をしたこともない人間の机上の空論である!!!!!と言われたらすべてが瓦解します、終わりです(泣)

 

 

・・・・・続きの会話に目を向けてみます。

©AUGUST

介入するにしても、生活を満足に営めるという保障と共に行わない限り、正当化することはできません。権利の制限はできる限り保障とセットにされるべきものだと考えられます。(上でカイムが主張していることと同義です、このカイムの展開する論はなかなかに興味深いものがあります。)

自分としても基本的に職業に貴賎なし、働くことで自立して生活している方々は尊敬すべき対象であるという考えがあるのでフィオネのこの意見には同意できませんでした。

とはいえ、大層に持論を述べてはいますが自分は未だまともに手に職もつけてない人間です、せいぜいやってもバイトなのでそんな人間が性のみならず職についてまで語るな!!!と批判されてしまった場合自分は何も言い返せませんし首肯するしかないんですが(就活大丈夫だろうか)

 

グダグダと語ってしましましたが、上の問答はフィオネのキャラとしての「潔白さ」*6がうまく表現された場面でした。

 

 

 

 

以上のようなやり取りもありつつ、彼女自身真面目に職務を全うしていたわけですが、その職務の裏には国家の闇とも言える暗澹とした悪が潜んでいました。

国家は正しく存在している、よって自分らの行いも正義であり、その正義に貢献していることに他ならないと信じていた彼女にとって真実は非常に残酷なものであり、彼女の家柄としての自尊心、今まで自分の人生で積み上げてきたものが瓦解していくように深い絶望に陥ります。

そのような中、なんとかして彼女を救いたいとカイムは言葉を投げかけるわけです(ここでフィオネルートに入るか入らないかが決まります)

 

入る場合と

©AUGUST

入らない場合

©AUGUST



です。

どちらも重要なことを言っています。

 

「何が正しいか、自分の目で見極めなくてはならない。」

 

自分で考え、決定すること。これが人として生きる上で大切なことです。

確かに今まで続いてきたもの(道徳*7であったり慣習、伝統であったりなど様々なもの)を軽視してはいけないのは間違いないです。

こういったものが短期間でコロコロ変わるようなものにしてしまうともはや信頼性も本来の効力もなくなってしまいます。

ただ、そういったものは稀に根拠もなく条件的な「常識」≒偏見であったりする場合も少なくありません。

かつての家制度に基づいた今は無き尊属殺や大航海時代に未開の文明を啓蒙しに行くという当時の偏見に基づく大義名分が掲げられていたことなどが歴史的な事実としていい例でしょう(何なら今ホットな話題などもいくつかありますがあえてここではあげません、只歴史的な事実に述べたにとどまるということで)

何が正しい/正しくないのかを判断する、時に自分が当たり前だと思っていたことまで検討し直すのは必要なことだと思います。

それこそフィオネが直面したような葛藤や絶望に苛まされるかもしれません、しかし思考停止せず、自己の知性を使って考えていきたいものだとこのルートを通して改めて考えさせられました。

「sapere aude(サペーレ・アウデ )」(知る勇気をもて)*8

 

 

 

 

 

エリス√

©AUGUST

「エゴと思いやり」、「上に立つ者としての在り方」

 

正直どう言葉を選ぶか悩みました、言いたいことはあるのですが短く表現するいい方法が思いつかなかったというか()

二つ目のキーワードである「上に立つ者としての在り方」は個人的な観点から刺さりました(TwitterでFF内の方はもしかしたらお気づきかもしれませんが)

エリス√でも自分で考え、行動することということの大事さは語られていましたがそれは前述の通りなのでここでは別の視点から話します。

主にこのルートではカイムとエリスの求めるものの食い違いによってストーリーが展開されていきます。

カイムはエリスの親を殺めてしまったことに罪悪感を持ち、自分の傍を離れて幸せになってもらいたい。

エリスは今まで自分で意思決定をすることはなく両親の言うことを射ていただけだった、そのため誰かの言うことを聞くのが当たり前でそれが、いわば彼女にとっての平静であり、カイムにそれを求めた。

ここで相反する思いが交錯しています。

 

©AUGUST

©AUGUST

 

「俺はやはり、エリスのことなど考えてはいなかったのだ。」


相手のためを思って、と言いつつ本当は自己(エゴ)のことしか考えていないということは珍しいことではありませんし、ほぼ自己の為に動くことが多いでしょう。

ただそれに気づかず、ひたすらに相手に押し付けるのは罪だと思います、これにカイムは途中で気づくわけです。

パターナリズム的な介入(本人の意思を問わず、よかれと思って相手に対し介入すること)の危うさが端緒に現れていると見て取れました。

 

©AUGUST

この点メルトは自身の在り方をきちんと直視できていましたね、本当に大人な女性、いろいろな面で魅力的でした・・・・・(見た目の好みとしてはどちらかと言うとロリ好きなので手放しに年上キャラを賞賛してるのは珍しかったりします)。

フィオネルートを見た感想として、優秀な主人公がヒロインたちの問題を巧みに解決していくというよくある構図かと思いきや主人公自身もまた、自分なりの悩みを抱えて葛藤していたという要素を持っていたことに好感を持てました、完璧無比で圧倒的なthe 主人公もいいですが、何かしら欠点を持っていた方が人間らしさはあり、共感が沸きます。

 

次に、上に立つ者としての在り方について。

不蝕金鎖と風錆の衝突とその中のジークの葛藤と立ち回りはなかなか見ていて胸に来るものがありました。

個人的に感じる部分もあったのです()

苦しい状況でも先を見据えて毅然として対応し、耐え抜いたジーク。

周りの仲間の気持ちを汲み取りつつも、組織全体とみらいのことを考えて常に行動していた彼の姿は間違いなく望ましい指導者の在り方の一つでした。

そんな彼の在り方を胸の留め、見習って引っ張っていきたいものです。

カイムとジークの関係性は自分好きでした、一蓮托生の男の友情、熱い。

 

 

 

 

 

コレット&ラヴィリア√

コレット

©AUGUST

 

ラヴィリア

©AUGUST

 

 

 

 

 

コレットがえっちぃ!」(IQ3)

 

・・・・・間違えました。

聖女としての清廉さと玉のような肌を持ち合わせていたイレーヌとしての存在から、ただの少女コレットとしてカイムに抱かれて、可愛らしく喘ぎ、愛されるというギャップがあまりにも刺さって、本音が出てしまいました(こういう感想を創作者の先生方は求めているのかも

そういった知識に詳しいわけでもないという、清純さがありながらも、エッチに積極的で献身的に身を寄せてくれるシーンは良かったと思います。

 

 

えー、これくらいに留めておきまして話をこのルートの内容に踏み込もうと思います。

このルートのテーマの言葉を選ぶならば

「宗教と救済」

です。

このルートは『ユースティア』の世界観の根底を揺るがし、その背後に隠された謎や羽根付き、とりわけティアの羽と彼女自身の真相についてなど徐々に明かされていくことになります。

それを含めて本題に、面白い内容になって行くわけですがやはり、この世界の秘密の一つである空に浮かぶ都市、ノーヴァス・アイテルと大崩落の話は驚きましたね。

よくよく冷静になって考えれば一人の人間の力で年を丸々浮かせるなんてちゃんちゃらおかしな話ですが、実際に聖女イレーヌには都市を浮かす能力などなかった。

ただ、都市で崩落が起きた時の民衆の鬱憤を解消するための担保のようなものでしかなかったと。

極限状態に置かれた孤児のコレットとラヴィリアを聖女、生贄と設えるためには身寄りのない少女など向こうからすれば正にうってつけといったところでしょうか。

許せないのは何も見ず知らずの少女らに偽りの物語を説き聞かせ、教会に招き入れたという点です。

死がが迫っている彼女らに対して、今の時点で、お前たちを救うことはできる。ただし、いずれ事が整った暁には「聖女」として立ち振る舞い死と向き合わなければならなくなるということを正直に話し、彼女らに条件付きで救うことの判断を委ねたならばまだ筋が通っているような気もします。

まあ、教会が自分らの教義の欠陥に関わるようなこと言うはずもありませんし無理な話ではあるのですが。

ただ、その話を一心に信じ、信仰として身を捧げてきたコレットがその信仰の偽りについて自覚した時の絶望感は想像をはるかに絶するものだったでしょう。

真実を知ってもなお、信仰を貫き、処刑を宣告されても向き合おうとしたコレットの強さには頭が上がりません。

恐らく教義の偽り自体には気づいていなかったのかもしれませんが、この強さはラヴィリアにも同様に当てはまることです。

 

 

次に作中で出てきた実際の会話について。

 

©AUGUST

 

「この世界の人は皆、自分が信じたいことを信じている。」

正に書いてある通りでしょう。

現実に照らすと、例えばキリスト教圏の国では人がどのように生まれて来たかという「一つの」事実、テーマについて見解が「複数」あるのです。

無神論に立つ進化論、有神論に立ち進化論を否定する創造論、それに進化論を認めつつ有神論を取るという中間的な立場の有神論的進化論まであります。*9

このことから人間が自分の信じたいものを信じ、都合のいい部分を見る、都合の悪い部分は見ない、といったようにして現実を自分の中でゆがめて解釈し、内面化を行っているというプロセスをはっきりと読み解くことができます。

この話題については信仰が事実の前に先立って存在しており、その後に事実認識が始まるということでしょう。

 

人間の事実認識について、端的に述べたものとして以下のショーペンハウエルによる文があります。

「どんな知性でも、認識の本質的な、純粋に客観的な内容に、それと無縁な主観的要素を────すなわち、知性を支えて条件づけている個人性から生じてきて、従って何か個人的な要素を────混入しないことはありえない。そしてこのために、その認識の内容がいつも不純になるわけである。この影響を受けることがもっとも少ない知性は、もっとも純粋に客観的な、従ってもっとも完全な知性であるということになるであろう。」

__ショーペンハウエル『知性について』細谷貞雄訳 113頁 (岩波文庫,2019)

人は知性を持つ生き物であり、その知性をもって事物を認識するが、各々の持つ知性を条件づける「個人性」によってその認識がゆがめられてしまうということです。

個という人である限り、事物に対して正確な把握をするのは非常に難しいということになります。

1+9=10、という事実については間違えようもなく眼前に存在しています。

しかし、この事実、とりわけ本題では足し算によって導き出された答えに対して、小さい数or大きい数の計算といった区別があるように、10という数字は大きいか小さいか、など判断する主体として個人が立ち現れた瞬間に確固とした「1つの」存在であった数字がそれぞれの認識による大きい数値、小さい数値などで分かれはじめ、変容し始めるといったところでしょうか。A君は10という数字を大きいというかもしれないし、それに対してBちゃんは小さいというかもしれない。

書いておきながらややこしくもあり、適切な例えかは自分でも正直分かりませんが、このようなものなのかなと思いました。

ここの議論は『素晴らしき日々』の二人の屋上の決闘前のシーンを彷彿とさせるものがありますね、ふと、書きながら思い出してしましました。

 

 

 

さて以上について論じたわけですが最後に宗教について話してこのルートについてはおしまいにすることにします。

何故人々は宗教というものを生み出すのでしょうか。

私が現在受けている大学の講義の中の一つ、そこで教鞭をとっている哲学専門の教授はこう言っていました。

「宗教とは人を死なないようにしてくれるものだ。」と。

前置きの話もなくこれを聞くと疑問が浮かびますが、順に追って考えれば難しい話でもありません、この言葉を『ユースティア』に照らしつつ、自分の解釈に従って紐解いてみます。

『ユースティア』の世界では一般の民衆にとってはいつ足元が無くなる分からないという非常に不安定な状態です、そんな中で正気を保つために人は言語を用いて、何かしら理由付けを行い、人々に受け居られるような物語を作ります。

言語で語りうるものにしてしまえばその事物は形式的に我々人間の世界の中の一部になるのです。(ここでは事物についてきちんと正しく論じられているか否かを問わず)

そして、語りえないもの(言い換えれば人の手によって完全に管理、理解しえないもの、それは死であったり災害であったり、時によってさまざまなものです)*10については我々が関与できない外の概念となり、時に人々を脅かすものとなるのです。

そして、その語りえないものについて便宜上ではあるものの語りえるようにするために生まれたのが宗教です。

いつ崩落によって落ちるか分からないという漠然とした不安を、落ち着かせ、何とか受容するために聖女という存在を作り出し、それを信仰し始めたと言えます。

信じることでその不安を解消し、曲がりなりにも強大な恐怖を克服できるのですからその点で言えば間違いなく「信じるからこそ救われる」でしょう。

人間もバカではありませんからその信じるに足る存在を生み出すために宗教というものを生み出したのです、そういった意味では未知なものを克服するという壮大な目的を持った世界最大のストーリーと言えるかもしれません。

そして、教授の話に戻すと、人間にとって未知で最も恐れるべきものが死だったという訳です。

実際どの宗教もあり方や解釈の違いは有れど死について何かしらの定義づけを行っていることからも分かります。(天国だったり黄泉だったり輪廻転生だったりと)

物語と言ってはいますが何もただ空想のものだと軽んじる意図で使っているつもりはありません、むしろ自分は特定の宗教を熱く信仰するわけではありませんが、どちらかと言うと有神論的な立場です。

自分としては現実にあることはある程度のものは自分の行動、力といったもので解決できる、しかし最後の最後で不安が残る場合に祈りを行うことで解決する・・・といった感じで宗教と向き合っています。

例えば、私がもう大学受験をしたのは三年前のことになりますが(時間がたつの早過ぎ、怖い)、神に祈るだけじゃ受かるはずもありません、まず勉強することが大切ということで自分にできる限りのことを積み重ねました。

しかし、いくら勉強しても最後の合格という結果は発表が出るまで未知のものであり、不安が付きまとうために祈ることで解消する、といった一連の流れが自分の体験に基づく話になります。

宗教の本当の始まりの時点などはそれこそ純粋な信仰のみの宗教というのもありえたのかもしれませんが、もはや今では利用される宗教、という側面が大きくなっているのではないでしょうか。*11

『ユースティア』では都市の存続のために利用されるという要素も大きかったですし、現実でも同様に宗教というものは利用されていると言えます。

 

コレット&ラヴィリアルートの欄が異様に長くなっているような気がしますのでそろそろ形式的にでも結論を置き、締めくくりといたしましょう。

宗教の存在としては利用されるなどのどういった在り方であれ、暫くは続くものだと自分は考えています。

『ユースティア』を見れば明らかですが危機が迫った時にこそ進化を表すのが宗教です。

啓蒙時代以降、人間の理性を信じ、科学で物事を解明していくことで宗教の預かる領域というものが減少していったのは事実ですが、依然として人にとって未知なものは多くあり、また、科学で語りえないものを人間は取り上げ、考えようとすることからも完全な脱世俗化というのは難しいように感じます。*12

日本人は宗教の意識が弱いと言われますがどうでしょう、皆さんにとって宗教とはどのようなものですか?

人によっては正月になれば自然と参拝をし、結婚する時は教会式に挙げて、人が亡くなった時にはお寺にお世話になる、など一つの宗教に限定されるわけではありませんが思っている以上に私たちの生活と宗教行事は身近だったりするものです。

日本人は意識的な信仰というよりも無意識的な部分に信仰が根付いているような気もします。

宗教に限らず、漠然と受け入れているものに対して色々と考えを巡らせてみることも面白いかもしれません。

 

 

 

 

 

リシア√

©AUGUST

「少女の成長」

 

ものをよく知らず、闊達な幼き王女が成長を経て一国の王となる話。

教養小説(ビルディングスロマン)*13の要素を多分に含んだ内容でした。

他のルートでも各々のキャラクターが自己の抱える問題を乗り越え、成長していますがいわゆる多くの人がイメージする「成長」を表現した物語という面ではリシアルートが一番わかりやすく書かれていると思います。

最後には王は国家の父である、というノーヴァス家の家訓にふさわしい性質振る舞いができていたのではないでしょうか。

この作品のテーマでもある自分で見て、考えるということについてもうまく書かれていました。

このルートではそれぞれのキャラの素顔や、ノーヴァス・アイテルの真相が最終ルート(ティアルート)に向けて多く語られます。

自分の気になった部分ではありますが取り上げていこうと思います。

 

ガウについて

こいつを、説得する方法はなかったのか。

ガウを倒してからも上のことを暫く考えていました。

彼女はギルバルトに忠誠を誓っていたわけでもなく、ただ自分の欲と思いに身を任せて行動していたにすぎなかったことから、戦闘時の問答で何かしら彼女に「答え」を提示できていたら仲間にするなんてことは無理(というかこちらが御免)だとは思いますが、道を引いてくれた可能性があったのではないか、と思ってしまいます。

・・・・・答えに満足した上で嬉々として攻撃される可能性も否めませんが、いやむしろこちらの方が高そう()

どうしてこんなことを考えてしまうかというと、ヴァリアスが不憫であって仕方がなかったからです。

決戦の前日の妻とのやり取りの時点で、ダメかもしれないとは思っていましたがまんまと嫌な予想は当たってしまいました。

リシアルートではカイムと共闘することでそれを免れますが、リシアを選ばない場合はヴァリアスがガウの全ての猛攻を一身に受け果たし合います。

ヴァリアスの妻は聡明さをうかがえましたし、もしかしたら自分の父親ギルバルトと対峙することだけでなく自分の夫が死地に向かうことさえ受け止めた上で彼を信じて送り出したのかもしれません、そうだとしてもやるせない気持ちが募りました。

そういった感情を持っているからこそ、それを何とか回避できなかったのかと考えるわけです。

 

 

 

 

 

・・・・・と豪語して色々と考えてみたものの無理でした。

彼女は自己憐憫の情に囚われてしまっているため、そこから逃れられない限り生きることと向き合うことも救われることもないでしょう。

彼女は理由を欲しがっていたみたいですが、理由や真実が仮にあったとして彼女が受け入れられる可能性はないように思えました。

カイムはガウのことを抱えた虚無感に負けたと言ってましたが、それは正しかったのかもしれません。

この話題については以下の言葉を借りて締めさせもらおうと思います。

「自分を憐れむな。自分を憐れめば、人生は終わりなき悪夢だよ」

原作:朝霧カフカ 絵:春河35文豪ストレイドッグス7巻』(角川書店,2015)────太宰治のセリフ

 

 

 

 

リシアルートは他のルートに比べ少し感想が少な目になってしまいますが、このくらいで。

このルートは他のルートと同じように深堀し過ぎると『ユースティア』の王政や貴族による議会といった政体論を話題として取り上げてしまいそうなので自嘲します。

全体として趣味の部類としては怪しい話題、看過できずどこかしらから突っ込まれてもおかしくないような話題にまで今回踏み込んではいますが、自分なりに考えて上のテーマがちょうど線引きの対象になるんじゃないかなと()

正直に言うと、とりわけ日本人は宗教に対する抵抗感も強いということで人によってはコレット&ラヴィリアルートの時点で趣味のブログとしてはご法度な話題に触れてしまっていると思う方がいてもおかしくはないなと自覚しながら書いてはいました。

ただ、宗教の要素を省いて『ユースティア』の作品について書くのは世界観にかかわる内容が含まれているため相当難しく、ほんの触りの部分しか書けない気がしたので潔く考えていることをそのまま書かせて頂きました。(ご不快に思われて方がいらっしゃいましたらここにて平に謝らせて頂きます。)

リシアルートはそこまでノーヴァス・アイテルの政治について触れなくともかけるなと思いましたのでこういった形でまとめということで。

それでは次は終局、ティアルートです。

 

 

 

 

 

 

ティア√

©AUGUST

「正にグランドエンド」

 

色々と読むのが辛いルートでもありました、今まで関係を持っていたキャラクターとも袂を分かち、敵対したり、カイムは自分の立つべき場所、行うべきことを見つけられずかなり最後の方まで煩悶をし続けたルートでもありましたから。

まさかここでカイムの弱さが赤裸々に描かれてくるとは思いもよりませんでしたね、ルキウスの影響によるものが大きかったのだとは思います。

あそこまでカイムは自分というものを失い、ルキウスの主張に流されるがままになってしまっていたのは兄としてのルキウス(いや、ここはアイムと言った方が適切かもしれません)の存在がカイムにとってどれだけ大きな存在だったかを物語っています。

そのように日々を無為に過ごしていたカイムに対して、今まで彼が手を貸し今までかかわってきた人物は、各々自分なりの意思決定を行い、行動をしていました。

この対照的な感じがより、カイムの無力さ、空虚さを際立たせていて、読んでいる自分の身にも刺さりました。

本当にティアの苦悶の声は聴くに堪えませんでした、誰かしらカイムをぶん殴って、目を覚まし、叱咤激励してくれないかと度々思ったものです。

 

特にジークにその役割を期待してしまいましたが(昔馴染みの同性の友人というものに私が殊更に強い信頼、感情を抱いているというのが大きいです)、彼の言動はなかなかに厳しいものでした。

©AUGUST

ただ、作品の終わりまで通してみると、カイムが一度会いたいと言った時に面会を断ったり、作品の終わりがけにカイムの無事を祈るような言葉を残していたことから、ジークはどこかしらでカイムを信頼していて、再び会った時にはきちんと肩を並べたいという気持ちがあったということが分かり、なかなかに泣けてきました。
ジークは牢獄の民を代表するトップですから、彼の国家反逆は牢獄民の想いを背負った上でのものだったのだのでしょう、そこの先に何があるかではなく死にゆく結果が変わらなくても何をするかに注目したのだと思います。

 

また、カイムとジークがノーヴァス・アイテルの行く末について議論を交わしていた時、ジークが最後に見せた哀しげな顔と愁いの帯びた声で

「しかし、大局を判断するのがお前なら・・・・・・少し寂しい。」

と言ったシーンは忘れられません。

何とも胸が締め付けられるような感覚がありました。

あの不蝕金鎖のトップ、牢獄の王が一瞬でも個人的な人としての感情を曝け出したという事実、それが友への想いだということ・・・・・・。

こんな顔を見せられたら、いつものギャップも相まって、抱えこんでいる娼婦の女の子の一人や二人恋に堕とせそうな感じがします、自分も若干胸がきゅんとしました←

色々な点を含め、ジークには魅力を感じてしまっています。

やっていることがギャングですが状況も状況ですし、彼の姿を見て愚直についていきたくなる部下の気持ちもよく分かりました。

ここでは合理性とか建前とか、それだけで生きるものではないということが良く表現されていました。

 

 

次にルキウス。

彼もまた彼なりに自分の意思を突き通した人物でした。

いや突き通さざるをえなかったのでしょう。

本来、人に手をかけるというもはそういうものだと思います。

これを問いとして投げかけてしまうと社会が成り立たなくなり、秩序を混沌へと貶める

ものなのでしょうが、言ってしまうと人を殺めてしまえば償うなんてことは本当の意味では不可能だと思ってしまうのです。(ここでは自己防衛やその他諸々の事情を含めた殺人行為はいったん棚上げし、まごうこと無き「悪」としての殺人をおいて話しています。)(法学徒にあるまじき発言)

なぜなら、危害を加えた対象はもはやこの世に存在しえないのですから、その後いくら極刑なりなんなり、慈善活動に励もうともその殺めた事実に変わりようはありません。

殺された対象のみならずその血縁関係の人など、周りの人も危害を受けている点のみから言えば償いをすることは間違いなく意味があり、重要な事ではありますし、社会としての秩序を保つために悪行には相応の制裁は間違いなく必要です。

ただ、本当の意味では解消できない、起きた事実はあり続けるのです。

 

 

それもあって、ルキウスは自分を貫いたのだと思います。

自分が行った業と向き合い、それを貫き通す在り方はどこか『装甲悪鬼村正』の湊景明と重なる部分がありました。

途中で投げ出してしまったら自分が都市を救うという目的を掲げ、犠牲にしてきた者たちの意味がなくなってしまう、その一心で修羅の道へと歩き続けていました。

そんな彼にリシアがそれで誰が幸せになるのか、と言ったのもなかなか痛烈でしたね。

恐らく目的の正当性や自分がした業を背負っているが故にもはやそれ以外のことはすべて些事と切り捨てざるをえなかったんでしょう。

この作品のキャラはどうしてこう、考えさせられるような言葉を連発するのか・・・・・(そこがいい)

各々のキャラの言葉や行動に筋が通っていて、それでも対立してしまうというのはなんとも悲しいですが、人間の一つの在り方を示しています。

それぞれの人が最善の行動をしたとして、それは必ずしも最善の結果には辿り着かないということ。

個々の「最善」に拠らざるをえないということです。

 

 

 

©AUGUST

続きまして上の文。これはカイムがルキウスの行いを自分の中で見つめ直していた時に出てくるものです。

ロッコ問題に類似するもので、ゲームやネットでもよく話題として取り上げられるテーマでもありますから、見聞きしたことのある方も多いと思います。

アニメ作品から引っ張ってくるのであればこの問題に直面した人物として、私の一番好きな作品である『Fate』という作品のキャラクター、衛宮切嗣が自分の中では真っ先に出てきます。

この問題の面白い(?)ところは状況が変わるにつれ人の意見も変わることです、救う、失われる命が等しい時にも。

提起される話題としてはAIによる自動運転、中絶、臓器移植等々、意図的に何かを犠牲にし、何かを救える場合人はどうあるべきかということです。

本ブログで取り扱う『ユースティア』の世界でたちはだかる問題も類に漏れず同じようなものでした。

この問題に対して有名な理論としては功利主義、義務論、二重結果論*14・・・等々ありますが一つ一つ取り上げて論じるようなことはしません。

閑暇のしのぎにブログを書いている自分のような浅学菲才な身には正直手に余るテーマです()

無辜の人を自分の意思で手をかることは許されるのか、かといって目の前に惨劇が起きようとしていて、その規模を少しでも減らせるのにもかかわらず傍観者を決め込むのはあまりに無責任とも言えるのではないか。

ここら辺が主要な論点で、あとはそれぞれの状況を検討しつつ、と言ったような感じでしょう。

時間がある方は一度読む手を止めて、考えてみて頂けると嬉しいです。

 

 

 

抽象的なトロッコ問題の話題はここまで。

『ユースティア』という作品ではここの一人を犠牲にするという立ち位置にティアという少女が現れます。

そして、トロッコの線路の行く末を握る一人の人物が主人公のカイムです。

カイムの最後にした選択について考えていきましょう。

これを語る上で執政公ギルバルトの存在は欠かせません、リシアルートでは言及しなかったのでここで書こうと思います。

©AUGUST

自分の愛する存在、クルーヴィスを亡くし、その復讐と取り返しのつかない現実に反抗を行うことに一身を尽くした男。

ノーヴァス・アイテルという世界を見捨て、自分が愛する者を選んだという点で言えば最後にカイムが行ったことと一緒です。

このこともあり、カイムは悩んでいたような気がします、世界を救うためにギルバルトを殺めたのにもかかわらず、自分が今度は同じようなことを行うのかと。

唯一違う点を指摘するとなればギルバルトは故人を生き返らせるという突拍子もないことをしたのに対して、カイムは生きているティアを守ろうとした点でくらいです。

これを見るとカイムの方がまだ現実的、まともにも思えますが、国家、多くの命に背いたことに変わりはありません。

これに関して私はカイムを支持します、なんならギルバルトも自信を持って糾弾できるか怪しいくらいです。

私はルキウスのように大層な人間には決してなれません。

全員が救われたり、幸せになれたりするならばそれが一番ですが、限定されるというなら自分の関りのある周りの人から、周りの人だけでも、と思ってしまいます。

最終章のカイムのように、ティアのような最愛の人がいたならば間違いなくその人を優先するでしょう。

その人がいるからこそ自分の世界は色づいているのであり、それが失われた灰色の世界に自分は残りたいかと言われると首をふります。

なので、カイムには共感できるのですが、ティアもティアでそれを許してはくれなかった・・・・・。

好きな人には生き残って欲しい、その一心で身を捧げたのです。

 

いや・・・・・自分の人生の最推しのキャラで『Fate/stay night』のHFルート(桜ルート)におけるイリヤスフィールもそうですが、どうしてこう、本当に(涙に咽ぶ)

 

正直どちらの気持ちも分かりますし、何とも言えません()

自分も自分が犠牲になって救いたい人が救えるのならば喜んで首を差し出しますし、生き残った人には自分のことなど忘れてしまって、とにかく幸せになって欲しいと願います。

ただ、逆に残される立場になったら先ほど上にも書いたようにそんなことは考えたくもありません。(とはいえカイムのように大事な人から生を託されてしまったら生きるしかないですが)

この文章から自分が相手を思いやるなどと言う建前を言いつつ、めちゃめちゃエゴイステックだということが分かりますね。

色々気取って上の部分で理論的な部分を捏ね繰り回したりしましたが、結局はこんな取るに足らない浅い人間です()

 

 

まあ、自分のことはさておき

最後にカイムはティアが守ったこの世界を見渡し、前に進んでいくことを決意しました。

そうするしかないでしょう。

他ならぬ愛した少女の願いの結果なのですからそれを受け止めて生きていくほかありません。

ここで生きることと向き合えなかったとしたら、ティアの気持ちを反故にしたことになってしまいます。

生きてなんぼ、と言いますがこれはそれ以外する他ないという所から来ているのかもしれません。

たとえ、それが愛する者のいない世界だとしても。

カイムと他のキャラたちの行く末に幸あらんことを。

 

 

 

 

 

まとめ

如何だったでしょうか。

ここまで長々と書いてしまい申し訳ございません。

もしここまでお付き合いいただけた方がいらっしゃったならばその方には並々ならぬ感謝と謝罪の意をここで表させてもらいます。

全て書き終えた感想としては自分でもどうしてこうなった、って感じです。

気を付けて作品を念頭に語ろうとしたのですが、話が上へ上へと向かっていって気づいたら作品という土台から離れてしまっていた部分もあったかと思います、反省。

ここで明らかにしておかなければならないのが、当該ブログにて具体的事例に関する主張が入ってしまったものが極力避けつつもあったかもしれません、これに関しては個人的な主張であり、正当性、妥当性といったものを兼ね備えているとは言い難い戯言だと思っていただければ、ということ。

そもそも、自分のような貧相な頭で自己啓発、啓蒙的な内容じみた内容なんて書けるはずもありません、ましてや特定の思想を推奨するものでも全くありません(というより特定の思想を表現してしまった場合、AUGUSTさんの規約に反しますので一発アウトです。もしアウトでしたら即刻該当部分消しますので())

自分のブログを読んでここがおかしい!と思った方がいたらむしろ嬉しいです、『ユースティア』的に言えばそれはご自分で考えた結果に他ならないものですから。

また、光栄にも自分の意見に共感する部分があったとして、どういった根拠をもって、そう言えるのかというのを言い直すことができたらそれはもう自身の考えた意見です。

また、上のようなことを除いても、純粋な物語として『ユースティア』は非常に面白かったです。

カイムというカッコいい主人公が色々な困難を乗り越え、戦った末に、隠された世界の謎を見つけるというだけでも完成度が高かったのではないかと思います。

単純に一連の戦闘をめぐるストーリーとしても面白いし、深く考えようと思えばどこまでも突き詰めて考えられるという点で名作でした。

とても良い、深いストーリーだが難解で人を選ぶという作品はありますが、手軽にも楽しめるし、より深くも楽しめるという両方を兼ね備えていることが『ユースティア』の抜きんでる特徴と言えるでしょう。

上の理由をもって自分は批評空間で『穢翼のユースティア』に90点を付けました。

 

 

因みに結局推し誰なの?という問いもあると思うので答えておくとティアです。

ティアルートの時にコレットの時みたく出オチで限界オタク化してみようかとも思ったんですけど、読み終えたテンション的にそんなことはできませんでした・・・()

 

 

「身長149.6cm!?!?!?翼付きキャラ!?!?!?」*15

 

 

とか言うつもりでした。

個人的な癖ですが身長140㎝台(お前の身長が低いから低身長キャラ好きなんじゃねーのとかいう鋭利な言葉のナイフはヤメて())と翼付いてるというのが属性として好みですので。

東方project』 のフランドール・スカーレット、『ローゼンメイデン』の水銀燈、ノベルゲーやる元気もなかった時に、暇つぶしとして最近始めてしまった『ブルーアーカイブ』のアズサというキャラとかそこら辺を思い浮かべれば納得いただけるのではないかと思います。

そんな感じでティアはまずビジュアルが結構ぶっ刺さってたんですよね、そして更に読み終えたらあのストーリーですから、好きにもなります。

 

 

このくらいでしょうか。

リアルの方の生活もあり暫く放置してから書いたり、書き直したりなどいろいろしていましたので、一貫していなくて文が辺だったり、読みづらい所などあったことかと思います。

ブログを書く欲も消化できましたので暫くは書きません、多分。(一つ一つが長くて更新少ないというブログ向きではない運用)

 

 

最後になりましたがこのような素晴らしい作品を作ってくださったオーガストの方々に感謝の気持ちを申し上げます。

また、ここまで読んで下さった方にも感謝を。

 

 

また機会がありましたらいずれどこかで。

(下によくわからない使い方で多用してしまった脚注がありますがお気になさらないでください)

 

 

*1:古来より運命に振り回される人間像というものは神話や寓話の中でも度々扱われてきた主題でもあるため、その点で言えば王道のテーマと評価することができるかもしれません。人々を振り回す運命としての意味合いを持つ女神フォルトゥナとそれに果敢に挑む人間側の立場、剛毅のヘラクレスという構図、アレゴリアが黒死病や争いなどで混迷を極めた14世紀イタリアで流行ったことが良い例でしょう。ただこのテーマをエロゲという分野で表現したことに大きな価値があると思います。

*2:ノエル・キャロル『批評について 芸術批評の哲学』森 巧次訳 (勁草書房,2017)に影響を受ける。本書41頁では「あるジャンル──たとえば推理もの──は特定の要件や目的をもっており、その要点・目的を実現することが、そのジャンルに属する一作品としての成功・失敗に、つまりこの例で言えば、推理もの作品としての価値の有無に大いに関わっている。」と主張する。また、作品を批評する際に、必要不可欠なものが価値づけであり、それは作品の形式が主題(テーマ)・内容にとって適切であるかどうかを決定する作業であるとも言っていた。テーマや目的など作品の根底を意識するようになったのはノエルの影響も大きい。

*3:創作者の意図を踏まえて作品を評価する意図主義と、そういった創作者の意図に関連するものをすべて排し、作品を評価する非意図主義などといった対立がある

*4:J.S.ミルという功利主義を唱えたことでも有名なリベラリズム思想家が提唱した原理。「文明社会の成員に対し、彼の意志に反して正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。彼自身の利益は、身体的なものであれ精神的なものであれ、十分な正当化理由にはならない。」というもの。『自由論』,1859

*5:自分が物事を考える際にはデカルトの説いたものを「理想」のものとして指標に掲げている。彼曰く物事を考えるには四つの規則がある。第一に、注意深く即断と偏見を避け、疑う余地もないもの以外は自身の判断に含めないこと。第二に、検討する難問の一つ一つを、よりよく解くためにできるだけ小部分に分割すること。第三に、自信の思考を分かりやすいものから複雑なものへ、最後には前後の順序がつかないものについてといったように、順序だてて書くこと。最後に、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、何も見落とさなかったと確信すること。以上の四つから成ると言う。実にもっともなことではあるが、最後の枚挙の原則などを遵守して実践するとなると、それこそ挙げればきりがないように思え、自身の洞察が一つの物事にかかりっきりにならざるを得ないような気もする。よって、これらは「理想」の物事の考え方であると置き、意識するようにはしているがあくまで指針としてである。いずれにせよ何かしら考える際には自分の中で基準があるとよいのかもしれない。┄┄デカルト方法序説』谷川多佳子訳 28-29頁(岩波文庫,2021)を参考

*6:「」で括られた文字は主に二つの用途で使っています。一つ目が単なる強調として。二つ目が条件付きや皮肉の意味を込めたものとしてです。今回は二つ目の意味、皮肉を込めて使用し、容赦のかけらもないある意味完璧無比な潔白さとして使ってます。二つの用途のどちらか分かりにくい場合も多いかと思いますがお許しください・・・(

*7:ハーバート・ハートによれば道徳は実定道徳と批判道徳に分けられる。実定道徳とは特定の社会で受容、共有されている道徳であり、それは往々にして多数者によるものである。時に偏見や時代背景も含むことから批判的に考え直す必要があり、その時に実定道徳を検討し直す原理を批判道徳だと主張した。

*8:ローマの詩人のホラティウスの書簡やイマヌエル・カントの著作である『啓蒙とは何か』で出てくる言葉

*9:https://news.gallup.com/poll/210956/belief-creationist-view-humans-new-low.aspxより

*10:色々とありますがここで自分は便宜上numinose的なものを想定しています。

*11:どちらかというと有神論的な立場である、と言いましたが正に自分の中ではここで述べられているような利用というものが大きく作用している気がします。また、パスカルの賭けでは神を信じるか信じないかを確率論を用いて論じ、信じた方が信じないよりかは益があるという意見にも影響を受けています。当ブログでは有神論/無神論の話題にはそこまで深く踏み込みませんでしたが、興味がある方は調べてみると面白いかもしれません。有神論であれば古代から現代まで様々な論客がいますし、無神論であれば近現代以降から盛り上がってきているのでそこら辺を探ってみてはいかがでしょうか。

*12:岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』 228-270頁(ダイヤモンド社,2016)

*13:ビルドゥングスロマンとは主人公が様々な体験を通して内面的な成長、人格を育んでいくといった内容で、元がドイツ語のため日本語訳に当てると教養小説や自己形成小説、成長小説に当たると言われています。───当ブログ『星空のメモリア 感想』まとめ部分より引用

*14:功利主義は先の脚注3でも挙げたJ.Sミル、そしてこの理論を提唱したジェレミーベンサムによる理論。義務論は主にイマヌエル・カントが説いた理論。二重結果論はトマス・アクィナスが提唱したもののようです。二重結果論に関しては理論としての大雑把なことしか知らないため、名前として挙げるのみです。

*15:穢翼のユースティア特典小冊子『穢翼クロニクル』(オーガスト,2011)より