cheat_IEの雑録

趣味関連のことを書きます。

【感想】家族計画 ~絆箱~

 

FFの方から頂いた家族計画 ~絆箱~ をプレイし終えたため、感謝の気持ちを念を伝えるべく、この記事を書きます。

このような作品と出会わせて下さり、ありがとうございました。

山田先生の作品はこの名義でも別名でもエ▢ゲーの括りの作品においてはこれが初めて触れることになりました。

以下より感想です。

 

 

家族計画 ~絆箱~

 

※ネタバレありきで書きますので、以下読まれる方につきましてはご注意ください。

 

 

 

 

 

 

真純√

X(旧Twitter)では
「家族計画 真純√読了。まず一人目 生い立ちの部分もあり、とにかく安心したい(させたい)、噓でもいいから好意が欲しいと泥沼に浸かってしまった悲しき婦人。こう言うとただ弱い人だと思えるが、最後は勇気ある行為をもって真実の愛に辿り着くことができた。弱さと強さを両方持つ、人間らしさを感じた。」
といった内容の簡単な感想を投稿した。
概ね自分の気持ちをそのまま短い文章にまとめたもので、今回書くことも同じようなものとなる。
ただし、今思えば一番人間としての温かみは知っていた人なのかもしれません。
なぜなら、母親との関係は良好でそこから人を愛すること、愛されることの意義と方法を学びとっていたからこそ、人の行為が欲しいと思えるのだろう。
ここは青葉√や主人公のスタンスと比較すること殊更に際立ってくる要素となる(両者は人を愛するという行為に対して出で立ちの違いはあれど抵抗感を持っていた。)
要するに、誰かがいなければ生きていけないという脆弱な精神と一言で片づけてしまうのであれば弱いと映るかもしれないが、人を愛し、愛されることができる、その器量を持っているという視点で見ればまた別の人物像として立ち現れてくるであろう。
実際、作品の中でも主人公に助けを求める、絡みつくシーンが多く目に入ってくるものの肝心な時に気配りをしたり、家族全体に目を向けているシーンもある。
特に、自分よりも弱い存在、一番最年少の末莉に対しては優しく抱き留めてなだめることも多かった。
自分より弱い存在がいたり、その人がどうしようもできないくらいに危機が迫っていたりした時にはきちんと行動することができる人物なのである。
最初の印象は正直なところぽんこつかつ精神が不安定、なんともやっかい・・・といった感じではあったが作品を進めるごとに別の側面を見て取ることができた。

ただし、これも作品の中では良し悪しの結果を生むことになる。

もちろん上記のように愛されたいという私的な思いもあったとは思うが、母親を安心させたいという考えもあってか結婚詐欺師に漬け込まれることになってしまう。

現代においてはライフスタイルに関して価値観が多様化しているため、以前ほど結婚に重きを置かなくなってきてはいるものの、それが逆風となってどのように生きればいいのか分からなくなっているのも事実である。こういった世相は恐らく真純のような人物には酷であろう。自由は時に人を惑わし、漠然とした不安へと駆り立てる。自分の中に明白たる生への思い、欲求を見出せない人にとってはある意味「古典的な価値観」というのも人生において光となるのである。また、一人で生きるのもよし、仲間と生きるのも家族で生きるのもよし、と多様化されているが、人に好かれたいという真純の価値観として根底にあるものは誰もが持ちうるような欲求であろう。

そういった意味で真純をただ弱い人物と一言でかたずけることはできない、そんなふうに常々読んでいて感じた。

 

春花√

ストーリーの終盤大きく絡んでくるマフィアについての全貌が明かされる大事な章、春花とマフィア、この二点について記述する。
まず、春花。
非業の行為の結果、というあまりにも酷な状況を生い立ちを歩んできた少女。
各々かなりディープな背景を背負っており、そのどれもが比較することはできないような辛いことであるものの、生まれる以前の出来事からずっとそれが付きまとっていたとなると春花の生い立ちは殊更に辛いもののように思えた。
生まれた後、生まれるきっかけなど憂うこともなく幸せな環境で育つことができたというのであれば別かもしれないがそんなこともなく、果てには母親や腹違いの妹などと合ったとしても本当の意味で語り合うことはついぞできなかったという所も含め、いたたまれない。
ただそんな彼女はいつも笑顔で、ひたむきに過ごしていたということが何よりも印象的だった。
次にマフィア系統の話題、劉さん。
彼も彼で波乱万丈な人生を送っていてなかなか興味深い。
元々は身内で異国の地でも安住の場所を気付き合うべくできたものが大きな組織となりその頭を張ることとなった。
組織の頭になると途端に身動きがとりずらくなる、個としての自分と組織の代表としての自分が存ずることになり、時に個を押しつぶさなくてはならないこともある。
元々人が集まった理由でもある家族としての連帯感と安全をという理念、これを実現しようと奔走をしていたが、その手段は気づけば身内をも利用するという理念に反したものになってしまった。
どこか他人事とは思えないようなそんなエピソードであった、彼らの物語も見てみたい気持ちが沸いた。

 

青葉√

愛することに対する恐れや一人で生きていけるのかということについて一番深く語られていたと思われる√。

また、思い出に支えられること/囚われることの功罪についても考えさせられた。

確かに、青葉にとって祖父の思い出はたとえ一部捏造されていたとしても今までの人生の中で安寧の一時であったことは言うまでもないであろう。

そして、それを拠り所にすることで生きることができた。

しかしながら、その思い出にも病的なところが潜んでいた。

捏造されていたことはもちろんだが、それ以上に未来への志向の思いを抱かせるに足り得なかったのである。

いわばそれは完膚なきまでに「終わっていた」思い出なのである、これ以上紡がれることのないものだったのである。

事実、その思い出は一種の妄執となって終盤に青葉の心身や言動を侵していく。

『夜と霧』で有名なヴィクトール・フランクルは未来へ志向する思いが活きる上では大切で、思い出はその材料となる・・・みたいなことを言っていた気がするが、思い出も扱い様によっては自身を縛りうるものなりうることを念頭に置いておかなければならない。

思い出を過去の遺物として終わらせるか、もしくはその思い出を糧にして今を生きるかは本人次第だが、今を生きるとは当然の如く今、そして未来を生きる(生きざるを得ない)ため後者の方がより健全ではある。

最終的には祖父の心境に気づき、祖父自身も他人を信頼し、愛することに恐れを抱いていたことに気づく。

愛することに恐れを抱くことと愛していないことは大きな違いである。

祖父は青葉が去った後その記憶を慈しむかのように祖父は自らの思いを絵画に描き、託した。

その思いがきちんと伝わったことで青葉の中で一つのわだかまりが消えたのであろう。

確かに人を好きになることは怖い、自分の思いをそのまま相手に託し、それを受け取られないはまだしも軽率にあしらわれたり、反故にされてしまったりした時には目も当てられない。

人を好きになって振られた際に、こんな思いをするのであれば、もう恋愛なんてするものかと考えたことがある人は少なくないであろう。

思いが深ければ深いほど、それが崩れ去った時に傷も深くなるものであるため、ままならないものである。

必ず報われるものでもないため、確かに分かりやすい例として極論を挙げるのであれば。恋愛至上主義を掲げ、人と触れ合える人は強いのだろうと思った。(無論、自分はその部類の人間ではない。むしろ、人を好きになることや愛することについてやや屈折した部分を持っていることも否定できない。*1オタクあるあるかもしれないが)

上記のように青葉が過去について気づきを得るのと同時に、主人公も主人公で自身の記憶の誤りに気付いてともに未来へと歩んでいくことになる。

そういった意味ではこの二人は家族計画の登場人物の中でも最も似た気質と背景を持っており、お似合いと言えるのかもしれない。

 

 

準√

どの√もイイハナシダナーとしみじみと読み進めてはいたが、準√の最後は心を強く突き動かされたのか、気づいたら涙が流れていた。
その点で最も感動した√と言える。
こんな感覚を覚えたのはいつぶりだろうか。
バラバラになった面々が最終的に集まるというのはどの√でもみられる帰結ではあるものの、それぞれがどのような視点からその行動に至ったのかという部分が描かれていて、胸に厚いものがこみ上げてきたのだと思う。(青葉が末莉のことを思い出すなど)
あと、愛されなかったものは愛し方が分からない、良くも悪くも親にされたことをそのままに行うことが多いという言説があるけれども、この悪い面に立ち向かうような行動をとって真摯に子どもたちと向き合っている景はすごい。
準に関しては人と関わる際に必ずギブ&テイク、具体的には金無しには付き合えないという観念とどのように向き合うかということについて終始描かれている。
家族計画という作品は、無償の愛や何をするか(to do)ではなく存在の肯定(to be)*2といったものを軸としている作品のようにも思えるので、テーマ的にも作品との直接的な結びつきが深いものが準√であるようにも思えた。(そのせいもあって泣けたのだろうか、いやこれに関しては後出し的な考えのこじつけ、結びつきにすぎないような気がする。)

 

末莉√

キャラとして見た場合誰が一番好きだったの?と聞かれれば、男であれば劉さん、ヒロインであれば末莉を挙げることになる。
これはキャラクターのストーリー像のみならず、見た目、自分の▢リ〇ンに近しい嗜好が滲み出てしまっていることを認めなければならない。(最近はその気が薄れてきていたと思っていたのだけれど根底には残っているようで)
どこかまだいたいけなさを残した少女、特に最年少ということもありそれが際立って見える。
かといって本人の自己校転換の低さがそのまま現れたような所謂「おにもつ」なんてことはなく、日々の雑務を率先して行ったり、誰よりも積極的にコミュニケーションを図ろうとしたりと間違いなく家族計画には必要な存在だった。
ミスも目立ち、そのせいで穏やかならぬ空気をもたらすこともあったがそれは家族のために行動しているからこそもたらされるものであって、何もことある度に失敗しているわけでもないことからそこまでマイナスの印象を角に抱くようなことはなかった。(そもそも、家族(厳密に言えば家族とさえ言えないような歪な集団)のために何かを行うこと自体にひっかかっていた青葉のような見方もできるが)
むしろ、年端もいかない子どもが健気に日々過ごしている姿を見るだけでも涙腺ものである(これが齢を取るということなのだろうか・・・?)
感情が高ぶって情緒不安定になったり、意固地になって周りを困惑させたりトラブルメーカー的な部分もあったが、そういうところでやっぱりまだ幼いのだということを知らしめてくるのだ。
最後に子どもを名付ける際に家族計画の名残を当てはめている部分だけ、主人公と末莉のエゴの色が出ているように思えて疑念を呈しそうになったが、恐らく考えすぎであろう。

 

総括

良い作品だった、ただし人を選ぶ作品であることは間違いないというのがまとめとしての感想となる。

弱い人が抱えているものを許容できない人や正論で筋を通そうという人は許せないシーンが多々出てきて読むのが辛くなると思われる。

実際家族計画というもの自体が、上に挙げたような要素をはらんでおり、歪な存在であることは明らかであるためである。

ただ、そんな中でも登場人物らが一生懸命に生きようとしているストーリーには胸を打たれるものがあったことは間違いない。

贅沢を言うのであれば、寛の父親らしいところをもう少し見せて欲しかったという思いが心残りとしてある。

家族に危機が迫った際に身を挺して戦ったり、大人として率先して大きな決断を行ったりと行動は起こしてはいるものの寛の内面が見えにくい。

どうしても主人公を通してみることになるため、突然の勝手ながらな行動や頓智来な行動が目立ってしまう。

大人や父親たるものとして本人の葛藤などは極力見せず、時に嫌われるような行動でも家族全体の為に毅然とした態度で行うと言えば聞こえはいいかもしれないが、元々寛には本当の家族がいたことも鑑みると、やはり心残りや歯がゆさがある。

また、何か大切なものを守る際には力がやはり必要なのだという現実的な部分も突きつけられることとなった。

ここで言う力とは多義的なものであり、時に財力、地位、体力など様々なものに当てはめられるが、そういったものがあればもっと容易に、大切な存在に負担をかけることもなく物事を解決できたというシーンが所々に散りばめられていたためである。

無論、事故などと世の中には自分の力ではどうしようもできないようなこともあるけれども、反対に自分の力で乗り越えられるものがあることもまた事実である。

私事で恐縮だが、最近、明確な原因も分からず時の運に恵まれなかったのか脱腸という症状にかかり、日々行えていたものがこんなにもあっさりとできなくなるものなのかということを思い知った。そして、その治療費が半端じゃないくらいに高いことに目を回した。

また、他には少し前まで就職活動を行っていたのだが、先に挙げたような要素について現実的に向き合わなければならないことがあった。

手術にしても治すには金が必要となる。個として独立し、自分でやりくりすることはもちろんのこと、その他大切なものができた際にはより高いレベルの力を持っていなければならなくなる。

そのため、自分の人生について考える上で力や運、時に理不尽な事柄にも向き合わなければならないということがより深く印象に残り、突き刺さっている。(この先の人生、やりたいこと、できないこと、それらにまつわる対価や将来性うんぬん・・・)

社会人を直前にしてやったことで、色々と自分について見返すきっかけにもなった。

 

最後に改めてFFの方であるPさんに感謝の気持ちを表し、ここで締めさせていただきます。

 

ここまで読んで下さった方ありがとうございました。

*1:筆者は基本的に自分の言動が全てエゴに基づいているものと考えている。人を好きになることも人の役に立ちたいと考えるのもそういったもの。そのため、本当に利他的な思いをもって行動できる人は心から尊敬している。

*2:現代における一般的な価値観である○○をしてくれたから○○をしてあげるといったものや業績主義的な尺度をto doの価値観とし、これに対し業績など関係なく相手の存在自体をそのままに肯定するというものをto beの価値観とする考え方。相手を手段ではなく目的として扱うというカント的な考え方に近しいかもしれない。家族は後者の価値観に依って成り立つというのが一つの当該作品の要素であろう。この対比の考え方はキリスト教の講義で出てきたものを今回借用した。